カメムシは秋頃になると家の中に入ってきて異臭を発散させます。現在でも解決ぜず悩みの種になっています。
一人も殺さず、殺されずに、ロシア軍をウクライナから完全撤退させる方法を紹介します。
最近、私は、持病や妻の付き添いで病院に行く機会が多くなり、その度に
年を取ったな
と年齢を感じます。病院でも、患者のほとんどは高齢者で、病気を抱えているのは私達だけではないと、ひとまず安心はするのです。
そして、その度に、お年寄りを見れば、その人の若かりし頃や、子供の頃を思い浮かびます。また、自宅の周りをはしゃぎ廻っている子供を見たら、70年後の年老いた姿が思い浮かんできます。
私が、札幌市西区に現在の住宅を建てたのは20代でした。その頃のご近所さんも皆若くて、町内の青年会のように、お付き合いをしてきたのですが、それから50年後の現在は、皆、老いて、老人会のようになりました。
町内の子供の数も年々減少して、近い将来、
限界集落
(50%以上が65歳以上の集落)になるのではないかと思います。これも時代の流れだから仕方がないのかも知れません。
「
家制度(家長制)
」のイメージ (いたみん[伊丹市] )
「
家制度
」では、
一家の長は父
、父が亡くなった場合は
長兄が家を継ぐ
こととされ、
妻や娘など女性は男性に従う
べきものと位置づけられていた。
(1947年、民法改正により
家長制廃止
)
1947年の民法改正により家長制が廃止
されましたが、私が小学生の頃は現在の保護者参観日のことを
父兄参観日
と呼んでました。あるいは
父兄会
と言うこともありました。地域によっては、母姉会、保護者会という組織もあったそうですが、私は聞いたことはありません。また私は父兄会のことは「
PT会
」という言葉を使用しておりました。
正しくは、PTAとは、
生徒の保護者
(Parent)と
教職員
(Teacher)からなる
団体
(Association)であり、
父兄
のことではありません。しかし私は、今でもPTAのことを
父兄会
と呼んでおります。特に
男尊女卑
等の他意はありません。私の年代では、そういう人は結構いるのではないかと思います。
このPTAですが、戦後、
GHQ
(連合国軍最高司令官総司令部)が、
軍国主義
だった日本に、
民主主義の理念
を啓蒙するため、アメリカのPTA資料を参考に、日本におけるPTAの結成を指導し、文部省内に「
父母と先生の会委員会
」が設置されたことは、大抵の人は知っています。
父兄参観(保護者参観)の様子
授業参観の目的
は、主に保護者に、子どもたちの日頃の授業を見てもらうというものです。上の写真は父兄参観(保護者参観)の様子で、たいへん懐かしい光景です。写真でもお分かりのように、出席者の殆どは、父兄ではなく、お母さん達でした。
このように、大抵の家庭では、授業参観には、基本的に母親が出席、母親が都合が悪いときは、父親が出席したと思います。
私の父が、父兄(保護者)参観に出席したあとの感想では「
まるでファッションショーだ
」と、愚痴っておりました。おそらく、お母さん方が着飾って来たのを見ての感想でしょう。また、私の伯母の場合は「
父兄参観日の当日は都合が悪く、珍しく主人が出てくれたので安心していたら、”PTAの役員”を引き受けてきた
」と愚痴っておりました。
転校した小学校でも、思い出に残るのは、父兄(保護者)参観に出席したお母さん達の、
お世辞の言い合い
でした。
例えば「
お宅の息子さんは頭が良いので、脳みそを少し分けて頂きたいワ
」に対して、「
イエイエそんなことありませんワ、おホホホホホ
」という会話を聞いて、子供ながらバカじゃないのと思うのでした。
担任の教師も、参観日には態度がコロッと変わります。普段から大声で怒鳴る教師でも、生徒が騒いだとしても、保護者の前では大人しくなるのです。
専業主婦もPTAの役員に当たりやすく、私の妻もそう申しております。
PTAでは、
共働きを理由に役員を断る
ケースが多く、役員を引き受けたくないから父兄(保護者)参観に出席しない保護者も多いと聞きます。
どうも、この父兄(保護者)参観には、良いイメージはなさそうですが、重要な行事です。
私が7歳、小学一年生の
通知箋
(昭和29年 1954年)
通知箋(五段階評価)では、
学習態度も成績に大きく影響
しました。
この学習態度が良ければ、学力テストの成績が多少悪くても、成績(評価)が上がったと思います。
私が小学一年生(7歳)
の時、通知箋で担任からの「
家庭への通信
」で、友達が少ないのは、
自我が強すぎるのが原因
とありますが、当時、私個人としては、そのような事を思ったことはありませんし、現在も数年に一回、クラス会の世話人をしておりますが、
同級生から自我が強い
などと言われたことはありません。
しかし同級生は、
私には何を言っても無駄
だと思っているのかも知れません。こういう私でも、70年後の現在も親しくお付き合いしてくれる同級生は、大切にしなければならないと思っております。
当時はこの通知箋を自分自身でみることは殆ど無かったのですが、いま見ると、担任の先生が、いかに私のことを心配していたかが分かるような気がします。しかし、両親からは「
頑張れ
」とか「
もっと勉強しなさい
」などと言われたことは一度もありません。私の両親は「
子供は遊ぶのが仕事
」と思っていたようです。
ところで、通知箋(五段階評価)て生徒全員の評価はどのようにするのでしょうね。小学一年生のとき、私のクラスの生徒数は
50人以上
もいました。
相対評価
の割合で50人学級では、「
5
評定」10%(5人),「
4
評定」20%(10人),「
3
評定」40%(20人),「
2
評定」20%(10人),「
1
評定」10%(5人)となるそうです。こう見ると、通知箋で「
5
」をとるのは難しいですが「
1
」をとるのも難しいですね。
担任の女性教師にしても、「
5
」を付けるのは喜ばしいでしょうが、可愛い生徒に「
1
」を付けなければならないのは、嘆かわしいことでしょうね。
もし、私が担任の教師なら、生徒全員に「
5
」をつけるでしょう。
小学校のクラス会(バラト公園)私、17歳、左端
親の授業参観の出席率や教師に対する心象も、子供の成績に影響するものと、私は思っていました。生徒の中には、
成績が良いから担任の先生にかわいがられているのか
、それとも、
担任の先生にかわいがられているから成績が良いのか
、どうか分かりませんが、
先生のお気に入り
と思われる生徒が何人かおりました。そういう生徒のことを「
先生のめんこ
」とか「
なっぱ
」と呼んでいましたが、それを口に出して言うことはありません。
一方、クラスには、その存在でさえ分からない生徒もおりました。
担任の教師も、特に差別しているわけではありませんが、私の目からは、その生徒は完全に無視されているように見えました。
私の父の小学生の頃も、同じように、クラスにいるのか、いないのか分からない生徒のことを「
お客さん
」と呼んでいたそうです。
中学校にも、そのように大人しい生徒がおりました。
休み時間、私はその生徒に「
何故皆と遊ばないの
」と聞くと、その生徒は「
心臓が悪いので、お医者さんから安静にするように言われている
」と答えるのです。私はそれ以上話すことはしませんでした。
小学校時代、その存在でさえ分からない生徒も同様に、身体のどこかに悪いところがあったのでしょう。
現在、小学1年生の頃の女性教師は既に心臓病で他界し、後任の女性教師は老人施設で静かな余生を送っております。
おわり
2025/3/31 石川栄一
授業参観に出席すると、子どもの様子や学校の雰囲気を知ることができ、また、ほかの保護者や先生たちとの関わりなども持てるようになります。それでは、具体的にどのようなメリットがあるのか詳しく見ていきましょう。
小学5年生の頃 私10歳(最上段右から3人目)左端「担任」 右端「校長」
「父兄」の意味
(1) 父と兄。父や兄。(2)学校などで、児童・生徒の保護者。
(ふけいかい【父兄会】→「保護者会」の旧称。) 「大辞泉」より
「父兄」というのは旧民法の「家制度」に基づく言い回しで、単純に父と兄を指すだけではなく「保護者」という意味で用いられてきました。
家制度の下では一家の長は父、その父が亡くなったりした場合は長兄が家を継ぐこととされ、妻や娘など女性は、男性に従うべきものと位置づけられていました。
家長の権限は絶大で、公私共に一家のことは家長がすべての決定権を持つということから、子どもの保護者は「父兄」という呼び方をされていました。
しかし1947年の民法改正により家長制は廃止され、その後の男女平等の意識の高まりや、離婚の増加など、時代の流れの中、「父兄」というのは、だんだんと時代に合わない表現になってきており、今では「保護者」のほうが、より一般的に使われるようになっています。
図は貧乏人のイメージ (by FREEPiK)ですが、現在は自己所有の
住宅に住んでいても貧乏な生活をしている国民が多くなっています。
1.強盗や泥棒、詐欺の被害に遭う確率が極めて低い。
つまり、金銭的に貧しい人は強盗や泥棒、詐欺師からも相手にされない場合が多いので、安全で健康的な生活を送ることができ、気持ちは豊かになります。
2.女性からも相手にされないことが多いため出費が少ない。
昔は「
色男、金と力は無かりけり
」と言われ、
色男
(イケメン)であれば、女性にモテましたが、現在は、
色男
だけでは、女性から相手にされない場合が多くなっています。
ちなみに、現在、
女性が考えるモテる男性の特徴
、
1位
は「
清潔感がある
」でした。
2位
は「
尊敬できる
」。
3位
「
礼儀正しい
」とつづきます。
金と力がある男
は番外でした。
このようなアンケートには、おそらく
女性の本音
は入らないのでしょう。
それとも調査年代により変わるのかも知れません。
私が若い頃、「
教養の無い男性にはまったく魅力を感じません
」と言った
女学生
がいました。私に向かって言うので、
教養の無い男のサンプル
のように思われていたのかも知れません。そういう女学生は相当賢そうでした。
3.交際費が節約できます。
飲み会では年長者であっても、貧乏なら割り勘にしても理解して貰えますが、無理をして、飲み代を全て持てば、男が上がること間違いなしです。そもそも貧乏人でも飲み会に誘って貰えるだけ、有り難いと思わなければなりません。
4.貧乏人は服装を選ぶ必要はありません。
よそ行きでも普段着のまま
で構わないので、お金がかかりません。返って、貧乏人が着飾れば「
馬子にも衣装
」と冷やかされるのが落ちです。但し、綺麗に洗濯をした清潔な衣服を着ましょう。
以上、
貧乏人のメリット
は、まだ色々あるかも知れませんが、貧乏人のデメリットと含めて、また別の機会にお話ししましょう。
盗も五女の門に過らず
(読み)とうもごじょのもんによぎらず
【読み】
とうもごじょのもんによぎらず
【意味】 女子が多いと、嫁に行くまでにお金がかかり貧しくなるので、盗人も五人女子がいる家は狙わない。
確かに、私の従姉妹(従兄弟)にも女性が多い(28人中15人が女性(死去含む))ので、泥棒や強盗に入られたという話は聞いたことがありません。だからといって、防犯対策をしっかりしていた訳でもありません。
私が子供の頃は、日本の戦後の復興期(昭和20年代)ですから、防犯カメラや防犯ブザーなど付けている家などなく、玄関の鍵でさえ、夜、寝るときくらいしか掛けません。これはどこの家庭でも同じだったと思います。
そもそも、
五女
の家に関わらず、戦後の家に泥棒に入っても、盗む物などないでしょう。私の家でも盗まれて困るものなど何も無いので、玄関にも鍵を掛けなかったと思います。
また当時の
子供らは一日中そとで遊ぶ
ので、玄関に鍵を掛けられると非常に不便です。「
鍵っ子
」という言葉が出てきたのは、私より一世代もあとの世代(1960年代)です。
※カギっ子
(カギっこ、鍵っ子)とは、家庭の事情で、学校からの帰宅時に他の家族(保護者や親)が自宅におらず、自ら家の鍵を持参している子供の事を指す通称。キイ・チャイルドとも言われていた[1][2]。(Wikipedia)
昭和20年代は、どこの家庭も貧乏でしたが、平穏で安全だったかも知れません。なにせ、交番の
おまわりさん
が近所のおばさんに「
何か事件はないですか
」と聞いて廻っていたくらいです。警察官も、いかに暇を持て余していたかが分かります。
事件かどうか分かりませんが、
私が2歳
くらいの頃、隣の薬局の前に販売用で
小学生向きの本
が10冊くらいづつ束にして積んであったので、それを一束づつ運んで自宅の前に積み積み上げたこともありました。
それを見た私の母親が、慌てて返しに行ったそうです。当時、その薬局では、市販薬の他に化粧品や雑貨、文房具、子供向けの雑誌も扱っていました。
また、私の弟が
銭湯
に行った帰りに、ピカピカの新しい
他人の靴
を履いてきたこともありました。私の母は、急ぎ、銭湯にその靴を返しに行きましたが、その靴の持ち主は、もう帰ってしまったようです。
母は、私の弟の古い靴を持って戻ってきましたが、ピカピカの新しい靴の持ち主は、銭湯から裸足で帰ったのでしょうか。
光武帝
後漢王朝の初代皇帝(西暦25年8月5日 - 西暦57年3月29日)
弥生時代「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節に与えた皇帝
このことわざは「
後漢書
」に記載されているもので、現在、中国の人口は世界二位で、約14億人。インドと一位、二位を争っております。しかし、中国の人口が増え始めたのは17世紀以降の話です。
今から2000年以上も前の
秦の始皇帝
や
三国時代
の
中国の人口は、2000万人
程度でした。その頃の日本は弥生時代(邪馬台国・卑弥呼の時代)。
倭人
の人口は、
日本全体で約60万人
でした。
さて、「
盗
」は当然、
ぬすびと
で問題ないでしょう。
「
五女
」は昔から貧乏人の子沢山ということわざがあるように、貧乏人は、遊ぶ金もなく、子作りに励むくらいしかないので、結果として、
子たくさんの幸せな環境に恵まれる
いう意味です。
しかし、現在は、あまりにも貧乏すぎて、子作りの前提である
結婚さえもできない
若者が多くなっています。仮に、めでたく結婚できても、経済的な余裕がないため、子作りに励むことさえできません。
次に「盗も五女の
門
に過らず」の「
門
」ですが、現在、一軒家で「
門
」のある家は、相当大きな家であり、貧乏人が暮らす家とは思えません。
2000年前の
後漢王朝
の時代には、どこの家にも
門
があったのでしょうか。
その
ことわざ
の本当の意味ですが、
後漢
の時代、お金持ちの家であっても、女の子が結婚するときに、お金や贈り物を沢山準備しなければ、家の面目が保てなかったので、5人も女の子がいる家は、その子らのために出費が嵩み、いつもお金がない貧乏人と思われ、泥棒も近寄らないという意味でしょう。
白黒写真をカラー化
フラフープ(Hula hoop)は、直径1mほどのプラスティック製などの
素材の輪で、輪の中に入った人が腰などを振って回転させるための輪。
私が9歳位の頃、1950年代後半、
ホッピングやフラフープ
が流行しました。
「
ホッピング
」は、
脳やバランス感覚が良くなる
と宣伝され流行しましたが、長時間飛び続けて、胃下垂や足の骨膜炎を訴える子供が出現したため、過激な遊びであるとして社会問題化し、ブームは沈静化して廃れていきました。
一方「
フラフープ
」は、
美容と健康によい
と宣伝され、子供ばかりでなく、大人もこの遊びを楽しみました。しかし、これも、フラフープが原因とされる胃穿孔で重体になる事件が起き、ある県では、少年3人が腸捻転など内臓障害になったことから、当時の厚生省もフラフープと健康障害への影響を検討することになり、ブームは急速に沈静化しました。
このフラフープは、ホッピングと比べると、
価格
が大人向けが270円位、子供向けが200円位と安かったので、1か月で80万本も売れたそうです。
しかし、我が家では、健康に悪いためか買って貰えませんでした。
おそらく
貧乏
だったからでしょう。
白黒写真をカラー化
「
母と私9歳
」 オタモイ海岸 1956年 夏
親から買って貰えなかったのは、フラフープやホッピングだけではなく、当時、小学校でも同級生の間で流行っていた「
けん玉
遊び」の
けん玉
も買って貰えなかったですね。けん玉の
値段は100円位
の物でしたが、生活が厳しかったのかどうか分かりませんが、私は1時間以上、頑張って、そうとう粘ったのですが、やはり買って貰えなかったですね。
それから70年後、100円のけん玉も買ってあげられなかったことを、老人ホームで、母は気にしていたらしく「
あのとき、けん玉を買ってあげれば良かったと思っている
」と一言
つぶやき
ました。
私は70年以上も、母が
けん玉
のことを気にしていたと思うと、申し訳なく思いました。これは母が亡くなる1年前のことでした。
おわり
2025/3/18 石川栄一
けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具。日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。(Wikipedia)
貧乏人ならでの思考とは?
今すぐ貧乏人ならではの思考から脱却する方法
などをご紹介!
デブの金持ちとヤセの貧乏人
弥生時代のイメージ(LearnJapan)
縄文時代、日本列島を囲む海には魚介類が繁殖し、陸には鹿やイノシシなどがあふれ、縄文人の狩猟天国でした。しかし、縄文時代末期になりますと、縄文人は食料確保に苦しむようになり人口が減少します。
大幅な人口減少は、縄文人に狩猟生活の限界を悟らせ、やがて日本に農耕文化が発展する切っ掛けになります。
紀元前1000年頃、
縄文時代末期
には、日本で原始米が栽培されていたようです。その後、日本列島に本格的な農耕文化が根付いたのは「
弥生時代
」でした。縄文時代、主流だった狩猟や木の実採集から、稲作を始めとする農耕へと食料調達法が変化したことで、
集落単位での大規模な共同生活
が定着しました。
やがて
米を持つものは富と権力を
持つようになります。こうして、社会的にますます、米持つ者と持たない者の差が開き、その間の戦いが激しくなりました。
米の争奮戦は、そのまま日本の歴史となり
、農地(領土)の奪い合いを繰り返す時代が続いたのです。このように、
弥生時代は戦争の歴史
と言っても過言ではありません。
卑弥呼像
神埼駅(佐賀県神埼市神埼町)の北口駅前広場
弥生時代、中国から漢字が伝わるまで、
倭人
は文字を使いませんでした。というより、文字というものを知らなかったと思います。
2000年前の1世紀から3世紀には、
倭
(日本列島)の奴国や邪馬台国と中国王朝との間で使節の往来があり、漢字を理解し、文書を扱うことのできる人々が存在したことは確かです。しかし、当時の日本語は古代語(
弥生語
)で、今の日本語は全く通じません。例えば、
(1)やあ きみたち
現代日本語
ヤア イマ ツィ タティ
弥生語
(2)この村は 私たちの 大中村(オホナカムラ)です
現代日本語
コノツァトパ ワンガ オポナカムラナリ
弥生語
また、邪馬台は
漢音
で読めば「
ヤバタイ
」、
呉音
で読めば「
ヤメダイ
」になります。魏志倭人伝は、原則的に漢音で読むべきという意見もあります。
このように、漢音でも呉音でも、邪馬台をヤマタイとは読めません。いったい、ヤマタイコク(邪馬台国)という読みはどこから出てきたのでしょうか。
弥生時代の戦争(イメージ)
卑弥呼の「年已長大」という原文を『彼女はとしごろになり、また年齢がすすんだが』と翻訳している。どうしてこんな文になるのか?
「年はすでに長大である」と書いてあるのに、長大はとんでもない婆さんです。普通の老を表す言葉ではない。
『卑弥呼にはそういう力は少しもない。首長どもが、じぶんたちの揉めごとを中止するために、便宜的にかつぎだした実力なき主宰者であった。いうなれば、やとわれ会長であり、やとわれマダムであった。』
しかし、魏志倭人伝には「
鬼道に事えよく衆を惑わす
」「
男弟ありて国を治めるのを補佐している
」「
女王となってから面会したものは少ない
」と書いてあります。
この書物を読む限り、雇われマダムのイメージはありませんが、もし卑弥呼が、雇われ会長であり、雇われマダム的な存在であれば、首長は言うまでもなく、衆さえも惑わすことなどできなくて、馬鹿にされて即刻、お払い箱になっていたでしょう。
想像できるのは、宮廷や神殿の奥で、神霊・祖霊などと接触交流・交信する役割を担う
巫女の姿
です。また連絡役兼食事係の一人の男子を介して実務を受けもつ弟に指示をだす神秘的な教祖様の姿のようにも想像できます。
現在の宗教団体の教祖様は様々でしょうが、昔、霊能者が大勢の人と接すると、
霊能力が消滅
するという話は聞いたことがあります。
また、邪馬台国(ヤバタイコク)ではなく邪馬壹国(ヤバイチコク)とする説もあります。その根拠は、魏志倭人伝にあります。
南至
邪馬壹國
女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七万餘戸
(現代語訳)
「(投馬国から)南、
邪馬壱国
に至る。女王が都を置く所である。水行十日、陸行一月である。官にイシバがある。次はビバショウといい、次はビバクヮシといい、次をドカテイという。およそ七万余戸。」
魏志倭人伝には、邪馬台国ではなく、
邪馬壹國
(邪馬壱国)と記述されていることから、日本思想史学者の古田武彦が主張した邪馬台国に関する説です。
卑弥呼の使者が拝謁した皇帝 曹叡
(そうえい)は、魏王朝 第二代皇帝
(都城)
洛陽
在位期間 226年6月29日 - 239年1月22日
「男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな大夫を自称した。」
「夏后の少康の子は、会稽に領地を与えられると、髪を切り、体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、
倭
の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた大魚や水鳥を威圧する為であったが、後には次第に飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれに異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分によっても違いがある。」
私が不思議に思うのは、このような
倭
の内部情報が、全て中国の魏王朝に漏れていることです。これは
倭
の国々が、魏の植民地かもしくは、完全に服従している証拠でもあります。これは、次の文章を読めば分かります。
魏の皇帝・曹叡
(そうえい)から
倭王
、
卑弥呼
に対する命令です。
制詔 親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到
汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順
「
制詔、親魏倭王卑弥呼
。帯方太守、劉夏が使者を派遣し、汝の大夫、難升米と次使、都市牛利、汝の献上した男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈をささげて到着した。汝の住んでいる所は遠いという表現を超えている。すなわち使者を派遣し、貢ぎ献じるのは汝の忠孝のあらわれである。私は汝をはなはだ、いとおしく思う。
今、汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を与え、装い、封をして帯方太守に付託することで仮りに授けておく。汝は部族の者を安んじ落ち着かせることで、(私に)孝順を為すよう勤めなさい
。」
※:
制詔
(せいしょう)は、天子(皇帝)が命令をくだすこと。
※:
帯方太守、 劉夏
(りゅうか)は、238年に卑弥呼がはじめて帯方郡(朝鮮半島の中西部)に献使を送ったときの帯方太守。戦時下にあった遼東半島を通過することを案じた劉夏は、
倭
の使者で大夫の難升米らに護衛のための兵と案内役をつけて、魏の都の洛陽まで送り届けた。
※:
生口
(せいこう)は、かつての中国や朝鮮半島における捕虜または奴隷。
倭
では奴隷とは異なる身分呼称とされる。
※:
孝順
(こうじゅん)とは、親に孝行を尽くし、その意に逆らわないことであるが、制詔では、魏の皇帝・曹叡に勉めて孝順を為せという意味。
朝貢図
(イメージ)
ここまでくると、
倭
は魏王朝の属国並の扱いです。
魏の皇帝
曹叡
の
制詔
を、
倭王卑弥呼
はどのように受け取ったのでしょうか。
当時の中国人から見れば、「
国
」というのは中華(中国)のことであり、他はことごとく
蛮族
でしたので、
邪馬台国
が魏王朝の属国であれ何であれ「
国
」として認められただけでも満足だったのかも知れません。
卑弥呼に関する歴史書には、出身地に関する記述はありません。卑弥呼はどこから現れ、どのようにして邪馬台国の女王になれたのか、その経緯も分かりません。果たして卑弥呼は、
倭人
だったのでしょうか。
私は、朝鮮半島の戦乱を逃れた一族が、
倭
(日本列島)に新天地を求めて渡ってきて建国したという考え方もしています。いわゆる集団移民です。
従って、卑弥呼は当時の高句麗人か、それとも、朝鮮半島南部には馬韓、弁韓、辰韓という小さな国の連合体があり、大国の高句麗に追い詰められた連合体の首長や官吏一族の出身かも知れません。
それが証拠に、卑弥呼は朝鮮半島を経由して、
魏
に使節を送っているので、古代朝鮮語や漢語が巧みであったと思われます。
一般の
倭人
(日本人)は古代朝鮮語や漢語は分からなかったでしょう、しかも当時、日本には文字もない時代でした。
■卑弥呼の外交戦略 (古代の歴史)
「魏志倭人伝」は、数十年に渡る、
倭
・
邪馬台国
の風俗・風習そして支配体制が事細かにまとめられています。
しかしなぜ、このように詳しすぎるくらい詳しく調べる必要があったのでしょうか。その事について、現代日本の
三国志研究者
らは、当時の世界観(地理観)、また当時の魏を取り巻く世界情勢を抜きに、魏志倭人伝を読むことができないことを強調しています。そして重要なのは、
皇帝の詔書は改竄できない
ことです。
第一に、三国志の著者、陳寿は、もともと蜀の史官でしたが、魏に仕えることとなり、魏の正史(正史の意味=正しい歴史ではなく、
王朝の正当性を述べる歴史
)を書かざるを得なかったという背景があります。
第二に、
中華の外の脅威である異民族
(東夷・西戎・北狄・南蛮)が、いかに
魏王朝の権威と徳にひれ伏しているのかを強調
しなければなりません。
当時は西戎は蜀漢に接し、南蛮は呉に接し、直接、魏に接する北狄と
東夷
に当たる部分のみが書かれており、その一つとして
邪馬台国
が存在します。
第三に、魏は、西域の国、大月氏(ダイゲッシ)に「
親魏大月氏王
」の称号を与えており、これに対応するのが「
親魏倭王
」の称号ということになります。
倭
は当時、長寿の国(
不老長寿のあこがれの地
)と見られていました。
そして、現在も問題になっている
邪馬台国の位置
ですが、当時の地理は、中国を中心として遙かに広い地域が想定されていて、
倭
もインドのクシャナ国に匹敵するくらい、遙か遠方でなくてはならないということから、
倭
の国までの距離(水行・陸行)が逆算されています。
陳寿
(三国志を編集)が知見して得た
呉の南方の習俗
から、
倭
の人たちの習俗も想像されることになります。つまり
倭
の位置、またその習俗は
陳寿のイデオロギーの産物
ということになるということです。
そして邪馬台国の場所ですが、九州説や大和説など様々です。
九州説
をとると、鉄や絹が豊富で大陸との交流も有利ですが、魏志倭人伝の水行・陸行の通りに行くと邪馬台国は九州の遙か南の海の中になってしまいます。
大和説
をとると、土器や銅鏡がたくさん発見されていますが、方角が南ではなく、武器や鉄器などを作る
鉄が少ない
ことが上げられます。
また魏王朝に朝貢の際、大和からでは、沢山の奴隷や貢ぎ物を運ぶのは、山賊や海賊による妨害や掠奪も考えられるので、相当難しいでしょう。
沢山の
古墳を調査
すれば、邪馬台国に関する資料が発見されるかも知れません。しかし、皇室の始祖や過去を調べられたら困る
宮内庁
が許すわけがありません。戦後、マッカーサーが古墳を調べて、重要な資料を持ち出したという情報もありましたが、現在まで、それも公開されていません。
邪馬台国や卑弥呼以上に、皇室の始祖も謎
のままです。
おわり
2025/3/10 石川栄一
陳寿(ちんじゅ)「三国志」を編集
【
陳寿
】[233〜297]中国、西晋の歴史家。安漢(四川省)の人。字 (あざな) は承祚。蜀 (しょく) に仕え、蜀の滅亡後は晋の張華に認められて著作郎となり、「三国志」を編集した。
【
魏志
】中国の歴史書「三国志」のうち、魏の国に関する史実を記した部分の通称。30巻。「蜀志」「呉志」とともに、晋の陳寿の著。魏書。
邪馬台国時代の都・吉野ヶ里遺跡
【魏志倭人伝 現代語訳】
倭の風俗・風習
「その風俗はみだらではない。男子は皆、結った髪を露出しており、木綿で頭を縛り付けている。その着物は横幅が有り、ただ結び付けてつなげているだけで、ほとんど縫っていない。婦人はおでこに髪を垂らし、折り曲げて結っている。一重の掛け布団のような衣をつくり、その中央に穴をあけ、そこに頭を入れて着ている。」
「稲やカラムシを栽培し、養蚕する。紡いで目の細かいカラムシの布やカトリ絹、絹わたを生産している。その土地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギがいない。」
「兵器には矛、盾、木の弓を用いる。木の弓は下が短く上が長い。竹の矢は鉄や骨の鏃を付ける。持っている物、いない物は儋耳、朱崖と同じである。」
「
倭地
は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。屋根、部屋がある。父母と兄弟は別の所で寝る。赤い顔料をその体に塗るが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである。」
「食飲には、竹を編んだ高坏、木をくりぬいた高坏を用い、手づかみで食べる。」
「人が死ぬと、棺に収めるが、槨はない。土で封じて盛った墓を作る。始め、死んでから停喪(かりもがり)する期間は十余日。その当時は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他人は歌い踊って酒を飲む。埋葬が終わると一家そろって水の中に入り、洗ったり浴びたりするが、それは(一周忌に白い絹の喪服を着て沐浴する)中国の練沐のようなものである。」
「海を渡って行き来し中国を訪れる時は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人に近づかせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になったり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイに至らぬところがあったというわけである。」
「真珠や青玉を産出する。その山には丹がある。その木はタブノキ(枏=楠)、コナラ(杼)、クロモジ(橡)、クスノキ(樟)、クヌギ(楺櫪)、カシ(投橿)、ヤマグワ(烏號)、フウ(楓香)がある。その竹はササ(篠)、ヤダケ(簳)、?(桃支)である。ショウガや橘、山椒、ミョウガなどがあるが、それを使って、うまみを出すことを知らない。アカゲザルや黒キジがいる。」
「その風俗では、何かをする時や、何処かへ行き来する時、気がかりがあると、すぐさま骨を焼いて卜し吉凶を占う。先に卜する目的を告げるが、その言葉は中国の占いである令亀法に似ている。火によって出来た裂け目を見て、兆しを占うのである。」
「その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。人は酒を好む性質がある。」
「大人を見て敬意を表すときは、ただ手をたたくのみで、跪いて拝む代わりとしている。人々は長寿で或いは百歳、或いは八、九十歳の者もいる。」
「その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴訟も少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその門戸や宗族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者にそれぞれ臣服して保たれている。
「租税を収め、高床の大倉庫がある。国々に市があって有無を交易し、大倭にこれを監督させている。」
「女王国より北は、特に一人の大率を置いて検察する。諸国はこれを恐れはばかっている。常に伊都国で政務を執っている。(魏)国中に於ける刺史のような地位である。」
「(邪馬壱国の)王が使者を派遣し、魏の都や帯方郡、諸韓国に行く時、及び帯方郡の使者が
倭
へやって来た時には、いつも、(この大率が伊都国から) 港に出向いて調査、確認する。文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。」
「下層階級の者が道路で貴人に出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る(=道を譲る)。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付けうやうやしさを表現する。貴人の返答の声は『アイ』という。(中国で承知したことを表す)然諾と同じようなものである。」
「その国は元は男子を王としていたが、居住して七、八十年で、
倭
は乱れ、互いに攻撃しあって年を経た。そこで、一女子を共に立てて王と為した。名は卑弥呼という。鬼道の祀りを行い人々をうまく惑わせた。非常に高齢で、夫はいないが、弟がいて国を治めるのを助けている。」
「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、(指示もなく)自律的に仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」
朝貢
朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。(by Wikipedia)
裏金議員をのさばらせて
オニギリ2個を万引した
87歳老女
…
窃盗の現行犯で逮補
北海道苫小牧市 2/24(月) 6:59配信 北海道ニュースUHB
2/24(月) 6:59配信 北海道ニュースUHB(フジテレビ系)のニュース
女を逮捕した北海道警苫小牧署
おにぎり2個を万引した87歳の女を逮捕です。
苫小牧警察署によりますと2月23日午後4時10分ごろ、北海道苫小牧市内の大型ショッピングモールから「万引きした犯人が店内にいる」と110番通報がありました。
警察官が駆け付け、店内にいた苫小牧市内に住む87歳の無職の女を窃盗の現行犯で逮捕しました。女は調べに対し「おにぎり2個518円相当を盗んだことは間違いない」などと供述しているということです。 警察では犯行の動機や余罪などについて、調べる方針です。(UHB 北海道文化放送)
法律上でいえば、万引きは窃盗罪にあたるということは誰でも分かっていると思います。おにぎりを万引きしたお婆さんも、おそらく、自分の子供や孫たちには「
人の物を盗んではだめだよ
」と言い聞かせてきたに違いありません。
しかし、仮に87歳まで万引きをしながら暮らしてきたとしたら、それはもう奇跡としか言い様がないでしょう。それでは、なぜ、おにぎり2個を万引きしなければならなかったのか、その原因はいろいろ考えられます。
1.
『生活苦』
やむにやまれぬ事情での行動だったかも知れません。ショッピングモール側は「
万引きした犯人が店内にいる
」などと警察に通報せず、お婆さんから事情を聞いて、おにぎり2個くらいなら「どうぞ」と只で差し上げるくらいの度量があれば、そのショッピングモールの人気も上がると思います。
2.
『クレプトマニア(窃盗症)』
物を盗みたいという衝動・欲求を制御できず、コントロールできなくなる病気
です。
盗った物は、個人的な用途や金儲けのために必要とされないことが多く、捨ててしまったり、隠したり、人にあげたりすることがあります。
3.
『認知症』
病気の症状と気づかれずに「犯罪」と誤解されて、刑罰を科されるおそれのある認知症は「
前頭側頭型認知症
」と言います。
「
なんでこんなものを盗るの
?」と、首をかしげるような数百円程度の商品であることも多いといわれています。
4.『
愉快犯
』 店員の目をかすめて商店から物を盗んでスリルを味わう。
大人が「
自分が子どものころは、よくみんなで万引きしてた
」などと自慢げに語りたがる犯罪行為です。商店や店員が慌てふためく様子を陰から観察・想像して喜ぶ行為です。人として許せませんね。
それにしても、おにぎり2個(518円)は高すぎます。いま米の値段が上がっているので、おにぎりの値段も高騰しているのかも知れません。
【日テレ】“裏金”リスト 自民党の安倍派・二階派議員は現時点で42人
さて、今回、87歳のお婆さんは、おにぎり2個(518円)を万引きして逮捕されましたが、一方、なぜ裏金議員は逮捕されないのでしょうか。さらに、元自民党議員の杉田水脈は、裏金1564万円を脱税し、現在、呑気に台湾旅行をSNSにアップしてます。正に人間って此処まで醜態を晒すものでしょうか。
過去にこんな万引きに関する記事がありました。
■
『3歳児、おなかすいて盗んだ 両親は借金背負い不在』(アサヒコム)
万引きで補導されたのは3歳の保育園児だった…ほぼ子どもだけでアパートで暮らしていた…空腹を満たすため万引きした。
■
『おにぎり万引き「生活苦しかった」校長逮捕』(日本テレビ系)
逮捕されたのは帝京冨士中学校・高等学校、校長の吉岡行正容疑者(63)
大洲市内のスーパーでおにぎりや酒など11点、合わせて1200円余りを万引きした窃盗の疑い。
■
『警部補、捜査現場から1万円窃盗容疑で書類送検 (時事通信)
万引き被害の110番を受けて駆け付けたコンビニ店で1万円札を盗んだとして、愛知県警は、窃盗容疑で東署地域課の男性警部補を書類送検し、停職3カ月の懲戒処分とした。
■
『「2歳の長男に運ばせた」おむつ万引き容疑の女が供述』(神戸新聞)
店内の防犯カメラには、長男とみられる幼児が、紙おむつの袋を持って歩く姿の映像が記録されていたという。
このように、万引きにも、いろいろなパターンがあるようですが、現在、現実に「
万引き老人
」が増えているらしいです。
87年間も頑張って生きてきて、今日食べるものにも困る
、そんな国にしてしまったのは明らかに自民党です。経済優先の社会は必ず貧困を生み、生きることも困難な弱者を見捨てます。貧困は心の中まで貧しくしていきます。
どうも、日本はおかしくなっています。
「
国家認知症
」とでも名付けましょうか、今回、87歳のお婆さんが、おにぎり2個を
万引きした原因が生活苦
であれば、自民党政府としては、
由々しき事態
であることを認識すべきでしょう。
また、食料支援に並ぶ生活困窮者がいるのに、開発途上国や紛争国を支援した結果か、国の豊かさを示す指標である
「一人あたりGDP」が落ち続け
ています。このままでは、日本のGDPは、やがて
開発途上国並
になるのは明らかです。自民党政府は、足元に飢えている人たちが大勢いる現実を認識できず、見て見ぬふりをして良いのでしょうか。
白黒写真をカラー化
私(3歳,中央手前)と弟(左上)・父母・祖父
(
1950年
冬)
私の家は子供の頃から貧困でしたが、全く気になりませんでした。
友達も同じだったと思います。ただ、同級生の中に両親が働いている家庭があると、子供の私でも
母親が働かなければならないほど貧乏で大変なんだ
と思ったほどです。1950年代、夫婦共働きは珍しい家庭でした。
同級生の女の子の中には、担任の先生に遅刻した理由を「
母親が働いているので、ご飯支度のため遅刻しました
」と話したときは、私は、大変な家庭なんだと考えさせられました。これは小学校4年生のホームルームの時でした。現在、夫婦共働きは普通になったように思います。
令和の日本は、昭和の日本とどこか似てきたようにも思えます。いままで何回か話してきたように、昭和のあの「
おにぎりの話
」もその一つです。
《昭和二十年代初期》
当時は、クルマもない、冷蔵庫や洗濯機もない、満足な衣服もない、あるのは寝るところと、食べるところくらいでした。このように、
市民が皆、貧乏であれば貧富の差が無い
のは当然です。
しかし寝るところもなく、食うこともできない人々もいました。
そのような人々は、私の家のような、貧乏人の家からも、食べる物を貰いながら暮らしていたのです。
私が3歳くらいのころ、見知らぬ母子が、うちに「
食べる物を頂けませんか
」と訪問して来たのです。私の母親は、その母子に
おにぎり
を握ってあげていました。子供は、私と同じ年頃の女の子でした。
昭和二十年代の昔は、なんといっても貧乏人の中の貧乏人といえば、公務員や鉄道員でした。なにせ「
給料が安い公務員には嫁がこない
」という時代でしたので、どれだけ貧乏であったか察しがつくと思います。
父親は、中国の戦地から復員し、鉄道公安官として国鉄に勤めていたためか、私は近所の子供らから「
日本一の貧乏人
」と呼ばれていたくらいです。
年頃の女性が、誰も嫁にこないのを知りながら、父親になぜ国鉄に勤めていたのか知りたかったのですが、もうそのわけを聞くことはできません。
おわり
2025/2/27 石川栄一
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