カメムシは秋頃になると家の中に入ってきて異臭を発散させます。現在でも解決ぜず悩みの種になっています。
一人も殺さず、殺されずに、ロシア軍をウクライナから完全撤退させる方法を紹介します。
白黒写真をカラー化
1958年 札幌市北32条西5丁目 当時の自宅周辺
当時、土地の価格は 6,000円/坪 バブル期には 900,000円/坪
写真(上)は、私が小学5年生(11歳)の秋に父が新築した家です。当時はまだ区政ではないので、住所は札幌市北32条西5丁目でした。
家の前に立っている二人は、私の従姉妹で、一歳年上と同年齢の女の子で、新築した家を見に来ました。
家の右手前に茶色の犬が二匹いますが、我が家の飼い犬で名前は「チャロ」と「タロ」と言います。当時はまだ放し飼いをしても問題になりませんでしたが、大きい方の「チャロ」は数年後に家を出て行きました。自由になりたかったのかも知れません。
一方「タロ」の方は、野犬防止のため蒔いてあった毒肉を食べて死んでしまったのです。この時は本当に可哀想でした。それは、放し飼いをしていた「タロ」が苦しそうにして助けを求めるように自宅に帰ってきたのです。
近所の子供らが、「タロ」が毒肉を食べたのかも知れないというので、私の父が毒を消すために、石けん水を「タロ」に大量に飲ませましたが、もう手遅れで、毒が体中に回った後だったようです。「タロ」は、自宅に帰ってきてから数分後に死んでしまいました。強力な毒肉を食べたのでしょう。
父は「タロ」に死に水(末期の水)を与えて、その後、自宅の花畑に「タロ」を埋葬してあげました。「チャロ」も「タロ」も悲しい別れになったので、私はそれから暫くは犬を飼うのはやめることになります。
白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
左側には少し傾いたバス停が見えます。名称は「○○商店前」
写真(上)は、1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』で、雪解けの頃(おそらく3月下旬)に撮ったもので、バス通りでしたが、まだ舗装はされていません。右側の奥にサイロが見えますが、当時は牛舎や農耕馬も多く、自宅の前にはデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑がありました。
夜になると、どこかの牛舎から、牛の鳴き声「モオオーオー」が聞こえてきます。酪農家の牛舎に直接、牛乳を買いに行ったこともあります。
牛舎では、搾った牛乳を、床に作った1メートル四方の大きなコンクリート製の升に溜めて置いて、そこから一升枡ですくって瓶に入れてくれましたが、いま思えば、あまり清潔ではなかったように思えます。
まあ、牛舎から買ってきた牛乳は、直接飲まずに沸かして飲んだので、殺菌されるから問題はなかったのかも知れません。
北32条西5丁目通りをまっすぐ北に進むと、麻生町(当時は三角屋根の家がたくさん並んでいて麻生団地とも呼ばれていました)、さらに進むと国鉄(当時)新琴似駅に到着します。
路線バスは、新琴似駅方面ではなく、麻生町から少し左斜めに折れて、屯田方面に向かいます。バスは途中、私の母校の新琴似中学校前を通りますが、バス通学ではなく、約3キロの道のりを徒歩、あるいは自転車で通学しました。
雨の日など、バスで通学した場合、市営バスのバス賃は、新琴似駅の踏切手前で降りれば
5円
、踏切を越えて中学校前(停留所名は新琴似神社前)で降りると倍の
10円
に跳ね上がりますので、5円節約のためには踏切手前で降りなければなりません。
市営バスの運転手からは「
5円くらい大したことはないじゃあないの
」と言われたこともありますが、収入源の乏しい子供にしてみれば、この
5円の差は大きい
ものです。
一方、中央バスを利用すると、その日によって、どういう訳か中学校前で降りてもバス賃は
5円
だったときもあります。これはバスの車掌さんが負けてくれたのか、それとも車掌さんが新前だったのか、もしくは、中学生なのに、小学生と間違えていたのかも知れません。
中学校では、生徒のほとんどは、併設されている隣の新琴似小学校からの移行ですので、私のように他の小学校からの入学は、
よそ者
のように扱われたように思います。中学校では自慢ではありませんが、勉強したという記憶は皆無です。
毎日のように、ステレオアンプやスピーカーボックス作りに励みました。
当然のことながら、中学生の私には収入源はありませんので、雑品屋(現在のリサイクル業者)巡りをします。当時も、各家庭で不要なものを回収する業者ですが、その雑品屋でも不要なものが出ると、倉庫に山積みされます。
そこで、私はその倉庫の中から埋蔵金を漁るように、ラジオやアンプの真空管や抵抗、コンデンサーなどを探し出します。特に、
高価な電源トランス
や
出力トランス
を見つけたときは、宝物を掘り当てたように嬉しかったですね。
雑品屋の主人も、子供の私からお金を取るようなことはなかったように記憶しています。誰から見てもお金を持っているようには見えなかったのでしょう。
このような事を繰り返し、中学校在学時には10台以上のステレオアンプ、メインアンプやスピーカーボックスをつくり、中学校の文化祭にも出展したこともあります。しかし通知箋は非常に悪く、他の生徒の不幸を私一人で背負ったようなものでしたが、理科と数学、図工だけは負けませんでした。
市電「北33条」電停、1963年(昭和38年)に麻生町まで延伸。
(出典)ただいま鉄道写真スキャン中
1972年 地下鉄南北線開通に伴い地下鉄平行部分の本路線の市電廃止。
札幌市電が北24条から麻生町まで延伸されたのは、1963年(昭和38年)になります。その後、市電は新琴似駅前まで延伸されます。一時、非電化として開業し、日本唯一の路面ディーゼルカーが走っていたこともありました。
ディーゼルカーですので、当然、静かな電車と異なり、走行しているときは、ゴーとかガーとか相当な音を出します。特に電車道路沿いの住民は騒音に悩まされたかも知れませんが、利便性が良いので反対運動は起きなかったと思います。
1年後くらいに電化されたので、ディーゼルカーは電車に切り替えられました。
笑う犬
(出典)ドッグトレーナー
犬が「笑っている」ように見える時、それは一般的にリラックスしている、楽しんでいる、安心している、あるいは飼い主との良好な関係を楽しんでいることを示しています。このような行動を見せているときは、犬も幸せで快適な気持ちでいることが多いです。(出典)犬のしつけ教室
さて、笑う犬ですが、私が北33条で電車を降りると、商店の前に犬が座っていて、その顔を見たら、何か笑っているように見えたのです。
犬が笑っているように見える理由は、次の4つがあるようです。
■ 理由1『飼い主の真似をしている』
■ 理由2『飼い主に喜んでもらいたいから』
■ 理由3『リラックスしている』
■ 理由4『「敵意はないよ」とアピールしている』
単なる通行人の私は、飼い主ではないので、理由3と理由4が該当すると思われます。ところで、笑顔に見えるのは「唸り」もあるようです。
しかし、私は犬に、ちょっかいなどを出していないので、唸られる覚えは全くありません。まさか
私を馬鹿にして笑っていた
とも思えませんので、やはり笑う犬は『
リラックス
』か「
敵意はないよ
」とアピールしていたのでしょう。
また、人間の「笑い声」は犬にとっても癒しにもなるそうです。
「笑う門には福来る」 「笑いは百薬の長」ということわざがある通り、笑いには、 心にも体にも良い「健康効果がある」と言われています。
これからも笑いがあふれる人生と社会になればよいと思うのです。
白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
西5丁目通りを走る市営バス。手前、左は鳩小屋、道路の向こう側は野原
写真(上)は、自宅二階の窓から西5丁目通りを走る市営バス撮った写真で、道路が舗装されていないので、砂埃が巻き上がっています。左下の小屋は、向かいの家の鳩小屋で、数十羽の鳩を飼っていました。
向かいの家の
本業は雑貨店
で、食品や小間物類を扱っていましたが、あまり流行っていなかったように記憶しています。おそらく、商売よりも鳩の世話の方が重要だったのかも知れません。
道路の向こう側の野原では、キリギリスをたくさん捕った思い出があります。
道路の両側は側溝になっていて、大雨の時以外は水はなく干上がった状態でした。また、夜、自転車で走っていたとき、対向車のヘッドライトに目がくらみ、側溝に落ちたこともありました。
バス通りの西側(手前)は、デントコーン畑だったところで、時々、馬を放牧しており、また自宅から自由に出入りすることができました。
私が小学校の帰り、デントコーン畑に放牧されていた馬と目が合ったとき、なんと
馬のアソコ
が
ロッドアンテナ
のように、ニョキニョキニョキと地面にくっつく位まで伸びたのです。
発情期の雄馬
(イメージ)
「出典」
馬に餌をあげたら突然発情した
(youtube)
人間の子供が馬に襲われた話など、あまり聞いたことはありませんが、緊迫した雰囲気になり、私はヒグマにでも出会ったように、おそるおそるその場を通り過ぎ、自宅にたどり着き、胸を撫で下ろしたのです。
犬猫のペットの寿命は、最長で20年位と思いますので、飼う場合は、彼らのために飼い主の寿命も考慮しなければなりません。たとえば、飼い主の年齢が、50代半ばを過ぎてから犬猫を飼う場合は、彼らより先に寿命が尽きてしまう恐れがありますので、ペットにとっては好ましいことではないと思います。
つまりペットよりも、飼い主が先に死んではならないということです。
ペットにとっては、死に水を取ってくれる飼い主が存在することが一番幸せなのです。しかし、飼い主が長生きしても、認知症になったらペットの世話もできなくなるかも知れません。
また、ペットも認知症になると「認認(にんにん)介護」になる可能性もあります。飼い主も、ペットも元気に長生きしましょう。
おわり
2025/8/24 石川栄一
札幌市北32条西5丁目 自宅があった場所(茶色の家)
(Google Street View)
札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
(Google Street View)
札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
(Google Street View)
(出典)WanQoL
(出典)犬の気持ち
(出典)UCHINOCO
(出典)笑う犬 | GANREF
(出典)PIXTA
(出典)Ameba
ドイツ ノイッフィンジング 笑う3頭の馬
(出典)アフロプリント
(出典)iStock
(出典)Pinterest
(出典)帽子被ったお馬さん(笑う)
全久寺まつり2025 北海道当別町
フルーティー 2025/07/06
お盆は、いつからいつまでと聞かれますと、正確にはよく分からない人がいると思います。私もその一人なんですが、調べてみたら、新暦8月(月遅れの盆)の場合、毎年
8月13日
(迎え火=盆の入り)から
8月16日
(送り火=盆明け)までの期間と決まっているとのことです。
8月13日 迎え火(盆の入り) 8月14日~15日 (中日)
8月16日 送り火(盆明け)
上の映像の
全久寺
は私の又従兄弟が住職をしている禅寺で、子供の頃はよく遊びに行った記憶がいまでも鮮明に残っております。
当時は当然のことながら、お寺でも子供が多く、男子が4人、女子が3人の7人兄弟で、男子のうち3人は、駒澤大学を出て永平寺で修行を積み、仏法の道を歩んでおります。(他界を含む)
また長女は、私の母と従姉妹同士でいつも自宅に遊びに来ていましたが、病のため40代で亡くなりました。一番下の女の子は、私がお寺に遊びに行くたびに、いつも広いお寺の中を二人で走り回ったのを思い出します。
次女は現在、私の自宅近くで暮らしており、時々連絡があり、その度にテレビやオーディオ機器のメンテナンスのお世話などをしています。
私は、全久寺の檀家ではありませんが、住職とは親戚であるため、なかなか縁が切れません。先日も住職が来られたので、仏壇にお経を上げていただきました。
バス停留所案内表示板(イメージです)
私が北海道大学に在職中、東京のある大学に出張したときに、そこの大学講師から聞いた話です。講師は私と同じ研究室の出身でした。
大学の前にバス停があったのですが、ある日、そのバス停(
バス停留所案内表示板
、以降
バス停案内板
と略)が
いつの間にか消えた
というのです。
バス会社が調べたところ、
バス停案内板
は、100mくらい先の方に移動していたことが分かりました。バス停案内板のコンクリート製のベースの重量だけでも
約40Kg
もあるものを、誰がどうやって動かしたのか調べたら、そこの大学生が、自分が暮らしている
学生寮の前まで歩いて運んだ
と言います。
もちろんこれは違法行為です。子供でも善し悪しが分かることを、大学生がなぜ分からないのか疑問です。しかし分かってやっていたら確信犯です。
そこで『
道路運送法
』について少し調べてみました。
路線バスは『
道路運送法(昭和26年法律第183号)
』に従い、
停留所の名称や位置
などを記載するよう定められています。
★道路運送法施行規則(昭和26年運輸省令第75号)
第4条第1項 法第5条第1項第3号の事業計画のうち路線定期運行を行う一般乗合旅客自動車運送事業に係るものには、次に掲げる事項を記載するものとする。
六 停留所の名称及び位置並びに停留所間のキロ程
このように、バスの停留所の位置は国土交通大臣に提出して、許可を受けなければなりません。そして国土交通大臣は、その事業計画が
輸送の安全を確保するために適切なもの
であるかどうかを審査しなければなりません。
★道路運送法(許可基準)第6条
国土交通大臣は、一般旅客自動車運送事業の許可をしようとするときは、次の基準に適合するかどうかを審査して、これをしなければならない。
一 当該事業の計画が輸送の安全を確保するため適切なものであること。
そして、
バス停の位置を変える
ということは、
事業計画を変更する
ということになるので、国土交通大臣の認可が必要です。
今回のように、
バス停案内板
を勝手に動かした場合は、
道路運送法違反
に加え、利用者に誤った停留所位置を教えたという点で、
偽計業務妨害罪
。さらに案内表示板を持ち去った場合は、
窃盗罪
にも該当するかも知れません。
大学生はその後どうなったか、大学の講師は話しませんし、私もばかばかしくて聞く気にもなれませんでしたが、おそらく、
バス停案内板
を元の場所に戻して一件落着になったと思われます。
ちなみに、運行中の路線バスについても、
所定の停留所以外の場所
で、客を乗降させたら当然
『道路運送法』違反
になります。
従って
バス停案内板
を勝手に移動させられた場合でも、路線バスは『
道路運送法
』
で定められた所定の停留所に停車
することになりますので、大学生が、重さ40Kg以上もある
バス停案内板
を、頑張って自分の学生寮の前まで運んで置いたとしても、バスは停車できないため、全く無駄だったということです。
それにしましても、若い人が100mくらいのバス停までの距離を歩くのが辛いのでしょうか。こういう性格の人物が、大学を卒業して社会に出たり、大学に残って教員になることのほうが、バス停案内板を移動させるよりも、もっと怖いと思うのです。
市電「西高校前」電停(昭和30年代の札幌市北4条西20丁目)
市電を待つ人々 白いジープは当時のパトカー(白黒写真をカラー化)
私が生まれた頃の昭和20年代は、札幌市電「
西20丁目 西高校前
」の停留所のすぐ前が自宅で、一日中、市電を見ながら暮らしておりました。(現在、西高校は中央区宮の森に移転しております。)
母の言によりますと、私が3歳くらいのある日、
線路の上に座り込んでいたら
、市電の車掌が電車から降りて、線路上にいた私を抱いて、自宅まで運んでくれたこともあったそうです。のどかな光景ですね。
私が少し大きくなると、瓶のふたを線路に置いておき、その上を電車が通るとプレスされて平らになるので、パッチのように相手の蓋を弾いて、ひっくり返す遊びに使ったりしたものです。
上の写真で「
三和石炭株式会社
」の看板のある二階建ての建物では、タバコも売っていました。近所ではこの店を「
三和石炭株式会社
」ではなく、「
タバコ屋
」と呼んでいました。
そこには
看板娘
もいたようですが、私が行くたびに対応した店員は、いつもおじさんばかりだったように記憶しています。私の母が言うには、「
タバコ屋
」の
看板娘
は、50歳を超えても看板娘のままだったそうです。この店では、カメラのフイルムの販売や現像やプリントも扱っていました。
私が5歳くらいの頃、祖父に頼まれて「
タバコ屋
」にタバコを買いに行き、駄賃として
10円(札)
も貰ったことがあります。(当時の10円の価値は現在の200円~300円くらいだと思います。)
いまは、未成年者にタバコを売ると「
未成年と知りながら販売した者には販売罪として科料50万円以下の罰金
」が課せられますが、当時は5歳の子供でも、タバコを売って貰えました。私が「
じいちゃん(祖父)から頼まれた
」と言ったので売ってくれたのかも知れません。
祖父から貰った駄賃10円で、
鉱石ラジオ
を買いましたが、使い方が分からないので、近所の幼なじみの友達が持っていた
カメラ
と交換したのですが、雑誌の付録のような
紙製のカメラ
で、まったく使い物になりません。
友達がいかにも、その紙製カメラで写真を撮っているような姿を見て、本当に写真が撮れるものと鵜呑みにした私がバカでした。
早い話が、使い方が分からない
鉱石ラジオ
と、使い物にならない
紙製のカメラ
と交換しただけの話でした。
※
鉱石ラジオ
やゲルマニウムラジオは、
増幅回路を一切持たず
、同調回路と検波回路のみで構成されているので、ラジオ放送を受信するには、受信感度が良い場所と比較的長いアンテナが必要でした。
夏、大雨が降ると、まだ下水道が完備されていないので、電停付近の水たまりの深さが子供の膝くらいまでなりました。
私は、その中を漕いで遊んだりしましたが、いま思えば、あまり綺麗な水ではなかったように思います。それは、生活排水などが混入していたからです。
花電車です。私のイメージは夜、電灯をたくさん点けて走る姿です。
花電車も良い思い出として残っています。
花電車は札幌祭り(北海道神宮例大祭)やクリスマスなど、大きな行事がある日や祭日に走りました。
私の子供の頃のイメージは、夜、電灯をたくさん点けて走ってくる花電車です。さすがに電車だけあって、電気には不自由しないと思ったりもしました。
この花電車がやって来ると、何となくうきうきしたものです。子供ながら夢があったんですね。
土佐犬(イメージ)
電停でのもう一つの思いでは「
土佐犬
」の話です。
私が10歳くらいの頃、自宅の隣を「
北海十字
」という洋菓子店に貸していたのですが、そこの主人が大きな土佐犬を飼っていたのです。
土佐犬は
闘犬
としても有名で、その性格は、飼い主に対しては従順でおとなしいものの、他人には心を許しません。また土佐犬は縄張り意識が強いため、番犬には向いていますが、ほかの犬と仲良くするのは難しいようです。
ある日、その土佐犬が何に気が障ったか、電停で電車を待っている人に襲いかかろうとしていたのです。それを飼い主である洋菓子店の主人が、地面に転がりながら、必死になってくい止めていたのです。
大型犬ですので、飼い主は引きずられながらも、どうにかこうにか事無きを得ることができましたが、土佐犬には、犬として、そうとう腹が立つことがあったんでしょうね。
札幌祭り「勤皇隊」(市電 西高校前) 白黒をカラー化
左は、軒花(のきばな)の写真で、家を掃き清め生花を軒下に飾り、神輿に乗ってきた神を迎えたことが始まり
昭和30年代の札幌祭りの神輿渡御は、二日間に渡って行われました。
軒花(のきばな)を軒先に刺すとお祭りの雰囲気が一気に上がります。
軒花はお祭りを盛り上げるために飾るだけではなく、本来は”
邪気を払う
”意味合いがあるそうです。
軒花は、お祭りの時に家を掃き清め生花を軒下に飾り、神輿に乗ってきた神を迎えたことが始まりで、現在は、
桜花型
に作り染めた和紙を竹棒で貼ったものを、玄関や門前に飾るのが一般的になりました。
子供の頃、母と一緒に神輿の行列についてゆき、西高校電停前から札幌神社(現 北海道神宮)まで歩いていったこともありました。
札幌祭りの神輿渡御で興味深かったのは、神輿ではなく、あの
勤皇隊
の笛の音(ピーヒャラドン)と一本歯の高下駄を履いた
天狗
でした。
あれから70年以上経った今でも、そのときの光景が目に浮かんでくるのです。
2025/8/13 石川栄一
数年前の写真ですが、久しぶりに市電に乗ってみました。子供の頃は乗降客の長い行列でしたが、いまは閑散としておりました。
また、荷物を載せる為の網棚がないのは、地下鉄やバスと同じで、不便を感じます。車掌もいないワンマンカーですので殺風景ですが、のんびりと車窓からの眺めを楽しめます。なかなか良いものです。 皆さんも札幌に来たら市電に乗りませんか。
「
ススキノ停車場
」 昔はグリーン色の車体カラーでしたが、このようにカラフルな車両もありました。
いよいよ出発進行
「
市電の車内
」 午前10時頃でしたが、ガラガラです。
乗客は高齢者が目立ちます。
「
資生館小学校停車場付近
」 昔は「
創成小学校前
」だったと思います。向かいの5階建てビルのところに、北総デパートという月賦専門販売店がありました。私も高校時代はお世話になりました。当時流行っていたエレキギターやテープレコーダーを買ったのもこの店でした。
「
山鼻9条停車場
」付近。昔の運転手さんは、立ったままの運転でしたが、現在は座って運転しています。
「
山鼻9条停車場
」 昔は電停には屋根がなかったので、雨が降ったら電停は傘だらけになりました。
「
中島公園通停車場
」 この停留所から東に進むと中島公園に入り、豊平館付近に出ます。更に進むと、札幌コンサートホール
Kitara
(キタラ)に到着します。
「
中島公園通停車場
」 グリーン色の車両は昔と同じ色ですね。
「
中島公園通停車場
」 カラフルな色の車両。車体広告料は幾ら位なのかな。そこで広告料金を調べました。車体広告は「ラッピングトラム」というそうで、何と一ヶ月33万円だそうです。
★詳しくはこちらへ
「路面電車広告メディアガイド(PDF)」
この車体広告が一ヶ月
33万円
は安いか高いかは私には分かりません。
広告の効果は分かりませんが、見ていて何となく楽しくなります。
ホーム
見出し
過去