カメムシは秋頃になると家の中に入ってきて異臭を発散させます。現在でも解決ぜず悩みの種になっています。
一人も殺さず、殺されずに、ロシア軍をウクライナから完全撤退させる方法を紹介します。
私が都内でよく利用した京王線「京王新宿駅」(ホームは地下2階)
東京で電車に乗ると、いつも思うのですが、乗客は皆、疲れ切った顔をしているのです。特にサラリーマンの仕事帰りの時間帯では、まだ二十代に見える若い人でも座席に座るため先を争います。そして、その若者の顔は如何にも疲れているように見えてしまいます。
私が二十代の頃は座席に座るために、それほど先を争うことはしなかったと思います。空いていたら座ることもありましたが、立っていることの方が多かったように記憶しています。東京のサラリーマンは仕事が大変なんだなと、いつも思うのでした。
Webサイトに「パリの地下鉄」を見ればわかる、日本人が貧乏になった理由…在仏作家が目撃した「東京ではありえない光景」という表題の記事がありました。その記事では『
勤勉な日本人が、なぜ貧しくなったのか。労働生産性はG7最下位、ジェンダー平等も最低水準にとどまる。
』と本題を切り出します。
フランスと日本の比較が始まるのですが、パリのメトロの車内は、私が知っている昔の日本の鉄道のように自由な雰囲気があるようです。
モンパルナス方面へと向かうパリのメトロ(地下鉄)
(出典)PRESIDENT Online
パリのメトロには、スマホで通話している人、大きな手荷物や電動キックボード、自転車を持ち込む人。飼い犬を連れて乗る人も多く、大型犬でも遠慮なく連れて乗る。
他人と微かでも接触すると、必ず「ごめんなさい」と挨拶する。老人や幼い子連れには、人種を問わず即座に席を譲り、赤ちゃんを乗せたベビーカーの乗降では、ドアに近いところにいる人が、必ず手を添えてサポートする。
パリのメトロは、いつもわさわさとして、何かが聞こえ、ものごとが動いている一方、シーンと静かで、皆一様の気配で、ものごとが止まってみえる日本の車内とは決定的に異なっている。
「
長く休んでも生産性が高い
」 フランス人は長く休暇を取っても、G7で1位になれるだけの労働生産性を培ってきたが、日本の労働生産性はフランスの半分よりも少し大きい(61.2%)という圧倒的な差が生まれている。日本人は、世界全体のなかでも長時間労働が課され、それに見合わない経済価値しか生み出せずにいる、ということになる。
2025年の日本のジェンダーギャップ指数は、0.666(1が完全平等、0が完全不平等)で、対象148カ国のうち
118位
の低さとなっている。ちなみにフランスは0.765で
35位
。労働生産性の指数と同じく、日本はG7では群を抜いて最下位で、世界全体のなかでも最底辺レベルである。
パリのメトロは、日本ではシートの色を変えて、はっきりと存在している
シルバーシート
は少なく、座る席を必要とする乗客をみつければすぐ、あくまで自発的に笑顔で席を譲る、というのがルールであり、日本の地下鉄のようにシルバーシート席を、わざわざ色を変えてつくる必要がない。
フランスの学校では、男女別の更衣室も、ブラック校則もなく、プールでは男女別更衣室の“男の入室禁止(あるいは女の入室禁止)”がない。
禁止でも強制でもない、話し合いで事故を防ぎ、プールの監視員の笛が鳴りわたることはほぼない。
フランスの公立校は中学、高校とも制服はなく、服装、髪型、髪色についても自由。校則として明示しているのは、大前提としての
自由の尊重
(および他人の権利の尊重)と、自由にともなう責任がある、ということが多い。
こうした校則の精神は、そのままパリのメトロの車内にも息づいている。
労働生産性の向上が目指すのは、豊かで幸せな暮らし。
ジェンダーバランスの均衡が目指すのも、すべての人たちにとっての、豊かで幸せな暮らしを目指している。それは、おそらく禁止と強制からは生まれない。そして
責任のある自由
が大きくかかわってくる。
最後に、著者の林 巧氏(作家)の記事は『
禁止のない森で生まれた即興のセッション
』で締めくくっています。
「パリの地下鉄」を見ればわかる、日本人が貧乏になった理由…在仏作家が目撃した「東京ではありえない光景」
「京王電鉄の車内」新宿~京王多摩センター~橋本方面
日本ではどうかといいますと、地下鉄には「
車内では、マナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください。優先席付近では、混雑時には携帯電話・タブレット等の電源をお切りください。
(東京メトロ)」という決まり文句があるように、乗客のほとんどは、スマフォの操作はしておりますが通話はしておりません。
日本の地下鉄の車内は非常に静かで、走行音だけが、
ゴーォ-ゴットンゴットン
と生命が全く感じられない、
無機質な音だけの世界
になっています。
静かなことはたいへん良いことで、私も電車の中で通話をしている客をみたら常識がないなと思います。
しかし、このような日本の社会通念が、市民の行動を制限し、労働運動や政治行動にも影響を及ぼし、デモや集会に参加すると、テロリストや異端扱いされるようになっていきます。
例えば、かつて自民党の
石破茂
幹事長(当時)が、
特定秘密保護法案に反対する市民の抗議行動を
「
テロ行為と変わらない
」とブログに書き込んだことに対して、抗議参加者らが発言の撤回や謝罪を求めた抗議文を自民党本部に送り、面談を求めたところ、自民党の担当者から暴言を浴びせられた(申し入れをした代理人の神原元弁護士の記者会見にて)ということです。
労働者の待遇改善
のためのストライキまでも、
マスコミによって迷惑扱い
されるため、労働者に自己犠牲精神が蔓延り、労働組合の組織率が低く、実質賃金も一向に上がらないことになります。
さらに、
極右の口先女
(言葉と行動が伴っていない女)が、総理になったとき、市民の抗議行動や政治活動に対して、どのような圧力をかけてくるか、その馬鹿さ加減の正体がいずれ必ず現れるでしょう。
開業当時の札幌市営地下鉄
(出典)北海道ファンマガジン
これは、私が二十三歳、院生が二十二歳の頃のお話です。
札幌市営地下鉄、南北線が開業して間もない頃、路面電車で通勤している私も、研究室で、
地下鉄に乗ってみたい
とほのめかすと、そばにいた院生が当時、札幌市が臨時に販売していた乗車券を貸してくれるというのです。
この院生のあだ名をコーシと呼び、前回の「スカイメイトカード」のときと同じ院生で、声が大きく態度も大きかったため、実験室の雑巾バケツの水を頭からかけてしまったこともありました。彼は第一回同窓会にも出席したのですが、やはり声と態度の大きさは、院生の頃と変わらなかったと思います
彼は前回の「スカイメイトカード」のときと同様に「臨時乗車券」も、
誰でも利用できる
というのです。
そこで私は、彼と昼食の賭けをすることにしたのです。
もし地下鉄の「
臨時乗車券
」が使えたら私がおごる、使えなかったら彼(院生)が奢るというものでした。
札幌市営地下鉄「札幌駅の改札口」
(出典)Wikipedia
さて、翌日の仕事明け、私は同僚と地下鉄札幌駅に行き、そこで同僚と別れたあと、地下鉄の改札で、院生から借りた「
臨時乗車券
」を自動改札機に差し込んだところ
フラップ
(扉)が閉じてしまうのです。
何度やっても閉じてしまい、そこに地下鉄の駅員がやってきて「臨時乗車券」を見た途端、私は、地下鉄の事務室に連れて行かれてしまいます。
地下鉄の駅員は私が不正乗車したものと勘違いしていたように思いました。
それなら乗車券を入れる
方向が違う
でしょうと言いたかったのですが、駅員は、
あーでもない、こーでもない
と
まくし立てる
ため、黙って聞いていたところ、今度は既に廃止されていたこの「臨時乗車券」は
誰の物だ
と問うのです。
地下鉄に乗ってもいないのに不正乗車だ
などと、こんな下らないことに院生を巻き込みたくないため、これについても黙っていたら、さらにエスカレートして、今度は「以前、不正乗車した者は罰金として7,000円払っていった」と、けたたましく言うのです。
これは、私に7,000円払えば許してあげると言う
体の良い喝上げ
じゃないかと思いましたが、それでも私は黙って聞いていました。
つまり、
地下鉄の駅員は、警察と検察と裁判官を兼ねて、罰金7,000円という判決を下した
と言うことになります。それにしても罰金7,000円とは、いやに半端な数値です。5,000円や10,000円なら分かりますが、7,000円という半端な数値はどこから出てきたのでしょう。
そこで私はカウンターを食らわせるために「
私が不正乗車をしたという証拠はあるのですか
」と尋ねると、地下鉄の駅員は「
見ていた
」と答え「不正乗車をしなかったという根拠を示してください」と問うので、私は「
地下鉄には乗っていないし、ホームにさえ一歩も入っていない、仕事帰りに札幌駅まで一緒に来た同僚もいるので連絡先を教えますか
」と答えると事務室はシーンと静まりかえり、いままでの駅員の剣幕も、どこかに消え失せてしまったのです。
私は、駅員が何も言わなくなったので、そのまま地下鉄の事務室を出て、定期券で、まだ廃止されていなかった地下鉄並行路線の路面電車で自宅に帰りました。そもそも期限切れの「
臨時乗車券
」が自動改札機のフラッパーでハジかれただけで「不正乗車」とは、あまりにも短絡的です。
秋の北大工学部
翌日、出勤して院生に「
臨時乗車券
」はやっぱり使えなかったことを話したら、また大声で笑い飛ばされましたが、笑い事じゃ済まされないので、先日賭けた北大生協学生食堂のランチを奢って貰うことになります。今回のことは、その場では話しませんし、これからも恐らく話すことはないでしょう。
地下鉄事務室で1時間以上も無駄にして、その対価は、
200円位のカレッジランチ
とは安すぎます。せめて、
300円位
のエルムランチを奢って貰えば多少は気休めになったかも知れません。
200円と言えば、当時
(1970年代)
の時給
に相当します。その後、高度成長期とバブル期で年収はうなぎ登り、定年退職時には、その15倍は頂いておりましたが、
当時の200円のほうが、何となく価値があった
ように思うのでした。
おわり
2025/10/8 石川栄一
次回予告『地下鉄で女性に抱きつかれたお話』
私が都内でよく利用した京王線
(出典)鉄道チャンネル
札幌市営地下鉄 開通記念乗車券
知らなかったで済まされない、済まされた。
<
判例について
>
法律にたずさわる者でさえも、法規すべてを知っていることなどあり得ないし、まして一般人は、法規について、正確に知りうる地位にはほとんどない。こういう状況のもとで、実務の運用から言っても「
刑事的な違反を犯した者が法規をちゃんと知っていた
」ことを立証しきれないかぎりは、責任を問えないことになって、たいへんな手間がかかる。
それよりも「
国民は国法を知る
」ものと
擬制
し、多少ともマズいところには眼をつぶり、形式的に違反行為がキャッチされれば、杓子定規と非難されようと、一律に検挙するやり方「
知らぬで通らぬ
」の方がコストは安い。『刑法第38条3項』
判例は
伝統的
に上述のように解釈するようだ。
『
Īgnōrantīa facti, nōn jūris excūsat
』
ローマ時代の法、法典に『
事知の不知は許すが、法の不知は許さない
』の格言があります。その意味は、罪を犯した行為を覚えていない、あるいは認識していない場合は罰せられない。しかし、その
行為が違法性があるということを知らなかった
としても、
行為そのものを自分が認識
していれば、
故意があったとして罰せられる
という事です。
最近の裏金事件でも「
政治とカネ
」問題で繰り返される“秘書”や“会計責任者”への「
責任なすりつけ
」が罷り通っています。
2022年に発覚した自民党の派閥での「
裏金
」問題は、政治資金パーティーの収入の一部を
政治資金収支報告書に記載していなかった問題
で、派閥が所属議員にパーティー券の「
販売ノルマ
」を課し、ノルマを越えた分の「
売り上げ
」を議員に「
キックバック
」し、それを議員側が「
裏金
」にするなどの実態が明らかになりました。
これを契機として、自民党では派閥が
名目上
「解散」し、“裏金議員”の「処分」も行われ、現職・元職の国会議員、秘書、派閥の会計責任者ら合計11人が起訴されました。
しかし、派閥幹部の立件は見送られ、また、国会議員の起訴も限定的なものにとどまったことについて、「
政治資金オンブズマン
」代表の神戸学院大学法学部の上脇博之教授(憲法学)は「
トカゲの尻尾切り
」と批判し、政治家本人に対する責任追及が遺漏なく行われるために、
政治資金規正法を改正するよう提言
しています。
(出典)羽鳥慎一モーニングショー
【
リクルート事件
】
1988年6月18日、川崎市の助役(当時)が、リクルートの関連会社リクルートコスモス社の
店頭登録前の未公開株
(証券取引所に上場・公開していない企業の株式)を譲渡されていたことを朝日新聞が報じた。
川崎駅西口の再開発計画に絡んで、この地区に進出が決まった
リクルートの再開発ビルの建築制限などに便宜を図ってほしい
との趣旨だった。
同市助役はリクルート側のファイナンス会社から資金提供を受けて、
公開前の株を購入、
店頭登録して値上がりした直後に売り抜けて、
差額の利益(売却益)を得ていた
。
当時は
バブル景気
で
株式は公開されれば値上がりが確実
だった。
その後、同じような形で多額の売却益を得ていたとして、
中曽根康弘
、
安倍晋太郎
、
宮沢喜一
の各氏ら、当時の
自民党中枢側への株汚染
の実態が明らかになり、1988年7月7日には、
竹下登首相
(当時)側への株譲渡が報じられた。
その後、
東京地検特捜部が捜査に着手
し、
政界や労働省、文部省、NTTの四つの贈賄工作ルート
に飛び火して最終的には、
藤波孝生官房長官(当時)ら政治家2人や事務次官経験者など12人が贈収賄罪で起訴
された。
政界に流れた資金は、
総額13億円余
にのぼり、未公開株の売却益や政治資金、パーティー券購入などで
資金提供を受けた政治家は40人以上
に及び、当時の
竹下内閣が総辞職
し、政治とカネをめぐる大きな問題として政界を揺るがせた。
リクルート事件前夜の
リクルート本社
GINZA8ビル
当時の名称、日本リクルートセンター本社ビル(写真:東洋経済新報社)
かつての「リクルート事件」では、有名な「
記憶にございません
」という政治家の発言が証人喚問などで連発され、国民の間でも流行語になりました。
政治家や証人の「記憶にございません」は、この法律の基本を知った上で、少しでも自分の罪を逃れるための答弁であることがわかります。
ただ、その犯罪行為自体を、自分が行ったかどうかという
事実を認識していない
と答えることで
故意犯という罪
は逃れようというものでした。
つまり、
知らなかったで済まされない
話だったのです。
賄賂を貰う行為自体が犯罪行為であるということは、政治家であれば知っていなければ、そもそもの素質・素養が問われるわけです。
国会は唯一の立法機関であり、
我々に選ばれた公僕である政治家
は、選挙や普段の政治活動を通じて、多くの有権者から得た様々な願いや要望、意見、悩み等を受けとめ、それらを実現するために、リーダーシップを発揮して目標を持って行動するのが政治家の役割です。
『チェックインカウンター』 イメージ(出典)livedoor
さて、法律的にも常識的にも「
知らなかったで済まされない
」場合が圧倒的に多いのですが、例外的に黙認された例を紹介します。
私が
23歳
の頃です。
技術関連出版社3社の編集者らと面談のために、東京に出張することになりましたが、経理掛からは編集者との面談では、
出張旅費が全額支給されない
とのこと。
そのため私が出張旅費の工面のため考え込んでいたところ、研究室の大学院生がスカイメイトカードを貸してくれるというのです。スカイメイトなら通常運賃の半額くらいで搭乗できるので、支給される旅費の範囲内に収まります。
数日後、もし、スカイメイトカードが使えなければ、自腹を切って通常運賃で搭乗すれば良い、と安易な気持ちで千歳空港に向かいました。
当時、チェックインはカウンターのみで自動チェックインはできません。
カウンターの女性スタッフに、荷物を預けてスカイメイトカードを見せたら、何とすんなり搭乗手続きができたので、保安検査をして搭乗口から入れたときは、安堵という気持ちに加え、何とも言えない気持ちになりました。
ところが、都内で出版社の編集者との面談が無事に終わり、帰りの便に乗るため、羽田空港のチェックインカウンターで手続きしているとき、女性スタッフから生年月日を質問されたので、院生から教えられたまま答えたのですが、次に、『
干支
』を質問されたのです。
私は、まさか『
干支
』を聞かれるとは想定外でした。
ここは焦らず、私が女性スタッフに「
他人に生年月日や干支を尋ねるのなら、まず、ご自分の生年月日と干支を述べてください
」と 問い返すと、女性スタッフは、これ以上の質問はせず、渋々、搭乗券を渡してくれました。
我ながら、
外角ぎりぎり
で通ったようなもの、と思いつつ札幌に向かいましたが、何となく後味が悪い結果になり、もう二度と航空機には乗らないぞ、と思ったくらいです。一連のことを研究室の院生らに話したら、笑い飛ばされて、それで終わりです。
何となく、しっくりしない結果になりましたが、今回の出張で、これから出版する書籍や雑誌の足場固めができました。
関係諸氏には感謝しております。特にJALチェックインカウンターの女性スタッフには、心からお礼を申し上げます。
『
エコノミーシート
』イメージ
翌年、東京の大学に出張のため航空機を利用することになります。
私は、昨年のスカイメイトの一件で、航空機は懲りているため、列車にしようと思いましたが、
出張旅費は航空機か列車か、安い方の運賃
プラス
日当で支給
されることになっているので、旅費の範囲内で収めるため、今回も航空機を利用することになりました。
さて、その出張の帰り、チェックインカウンターで手続きと保安検査、搭乗口、そしてボーディング・ブリッジを通り航空機内に入ったとき驚きました。
何と、
私の席がない
のです。つまり、私の搭乗券番号の席に、まったく関係の無い乗客が座っているのです。
そこで、私が首を傾げながら考え込んでいたら、スチュワーデス(Cabin Attendan、客室乗務員)が、申し訳なさそうに声をかけてきたのです。
「
お客様のお席はお二階にどうぞ
」と案内されるまま、ジャンボ機なので二階に上がって見たらビックリ、そこは『
ファーストシート
』だったのです。
『
ファーストシート
』イメージ(出典)Aviation Wire
私のような貧困層の平公務員が『
ファーストシート
』の搭乗券など買ったことがないと思いましたが、文句を言ったら、女性客室乗務員から何か言われそうなので、訳が分からないまま席に着いたのです。これが、もし家族連れなら、離ればなれになるところです。
『
ファーストシート
』には私の他、2~3人しかおらず、そこに客室乗務員が付くのですから、これじゃJALの経営も大変だろうと思ったくらいです。
また、私がエコノミー料金で、他の乗客がファーストシート料金で搭乗しているとしたら、これまた不公平な話です。
案の定、JALは倒産してしまいます。
JALが、2010年1月に会社更生法の適用を申請し、事実上の倒産に至った主な理由は、2008年のリーマン・ショックが直接の引き金となったものの、長年にわたる脆弱な企業体質が根本的な原因とされています。
私の「
搭乗券番号
」の席に
他の乗客
が座り、私の席がなぜ『
ファーストシート
』だったのか、JALからも客室乗務員からも、これについての説明は全くなかったので、いまでも不思議に思っています。
それにしても、『
ファーストシート
』の客室乗務員は何かと口喧しいですね。それが仕事かも知れませんが「座席ベルトを締めてください」とか、言われなくても分かっているのに、いちいちうるさいし、ビデオカメラで風景を撮ろうとしても「機内ではビデオカメラなどの電子機器は使えません」などと注意されて、融通が利きません。
しかも、「機内では電子機器は使えない」という注意書きは、どこに書いてあるのかも、その根拠も分かりません。
札幌から東京に向かうときも、機内からビデオカメラで風景を撮っていたのですが、男性の客室乗務員から「本当は機内では電子機器は使えないのですが、良いですよ」と言われましたので、一応了解でした。
そもそも、当時のビデオカメラの構造や使用素子を見れば分かるように、発振回路や送信部がないので、航空機の運航に害を及ぼすような電磁波が出る訳がないのです。
一方、現在のスマフォのほうが有害電磁波を発生する可能性があるので、航空機に乗ったら「
機内モード
(スマフォが電波を受発信しない状態にする機能)」にする必要があります。
おわり
2025/9/27 石川栄一
『
JALボーイング747 ファーストクラス
』
(出典)JAL公式フェイスブック
“JAL再建の奇跡”はなぜ実現できたのか
日本航空元会長補佐 大田嘉仁氏
2010年1月19日、日本航空(JAL)は経営破綻した。
戦後最大の負債を抱えて倒産した巨大企業。
「もはや再建は不可能」との声に、敢然と立ち向かったのが京セラの名誉会長だった稲盛和夫氏。1年後に過去最高の1800億円、2年後には2000億円を超える営業利益を上げる超V字回復を遂げた。
なぜ、稲盛氏率いる再建チームは不可能を可能にしたのか。稲盛氏を補佐し、JAL再建を成し遂げた大田嘉仁氏に聞いた。(本誌・高根文隆)
(出典)朝日新聞
(出典)新刊JP
(出典)論座アーカイブ
(出典)朝日新聞
(出典)朝日新聞
(出典)毎日新聞
ヒグマの親子 知床には400~500頭生息 (イメージ写真)ANA
知床では今回(2025年8月14日)のヒグマによる人身事故の前から、
人に慣れたヒグマが出没
し、何時どこでも事故が起きてもおかしくない状況だったそうです。環境省ウトロ自然保護官事務所は「男性を襲ったヒグマはイワウベツ川でも頻繁に目撃されていた。近づいてくる観光客によって、そのヒグマが人慣れしていた可能性もある。今後の対策を検討する上で重要な取り組みになると思う」と話しています。
知床、羅臼岳登山口の山小屋の管理人も「クマの近くに寝転んで写真を撮っている人を見た。クマは人間は怖くないと学習したのではないか。人はクマの生息地に入るということを理解し謙虚な気持ちを持ってほしい」と語ります。
逆から見れば、
クマに慣れた人間が出没
し、いつどこでも事故が起きても、おかしくない状況だったとも言えます。
自転車を運転するヒグマ (イメージ jijicom)
そこで、人慣れしたヒグマを手懐け訓練して、現在、知床に生息しているヒグマ、400~500頭を密かに北方領土に送ったらどうでしょう。
これには、さすがのロシア人も驚くでしょう。
まず、ヒグマを大量に捕獲するために、知床半島に大きな生けすを造り、サケやマスを数百尾放します。そこにそれを捕りにやって来たヒグマを麻酔銃を撃って捕獲します。
捕獲した数百頭の中から賢そうなヒグマを訓練して手懐けます。
レーダーに掛かりにくい国籍不明の数隻の
木造不審船
を、ヒグマに操縦(場合によってはGPSで誘導航行)させて、夜陰に乗じ国後島、択捉島など北方領土に向けて出航します。それぞれの不審船には数十頭のヒグマを乗せておきます。
不審船(イメージ写真)
不審船が北方領土の沖合に着くと同時に、自動的に船底から注水し、証拠隠滅のために沈没させます。船が沈むとヒグマは否応なしに、近くの島々(北方領土)に向けて泳いで渡り上陸します。
クマは“
泳ぎの名手”
といわれていますし水浴びも好きで、昭和20-30年代までは、知床五湖や芦別岳の熊の沼、大雪山の沼の原・沼の平・高原沼などには水浴びのために来るヒグマの足跡が必ず見られたそうです。
また、
ヒグマがいない島で知られている利尻島
にも、かつては北海道の沿岸、天塩から泳いで渡ってきたと噂されたヒグマ騒動もあったようです。
当時の新聞記事によると、明治45(1912)年5月22日あたりから、ヒグマがいない島、利尻島にクマが現れていたとのことです。
どうも、利尻島の対岸、北海道の手塩から島に泳いで渡り、一度上陸してからまた海に戻ったようです。そうして再び、利尻島(旭浜)に上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを漁場の若者達に発見され、大捕物のすえに斧で撲殺されてしまいました。
しかし、北海道の天塩から利尻島までの距離は約50kmはあります。
ヒグマがどのようにして泳いできたのか、今でも謎となっています。
ちなみに北海道から国後島までは最短で約20kmです。
泳ぐヒグマ (イメージ写真)マタタビの実
さて、上陸した相手が兵隊ではなく、国籍不明のヒグマですから、話せば分かるというわけにはいきませんし、いつどこで襲われるか分かりませんから、国後島、択捉島をはじめとする北方領土は、このままでは人間が住めない状態になり、何も知らないロシア人は逃げ出すでしょう。
もし、ロシア人が北方領土を捨てなくても、日本にヒグマ対策を協議したいと申し出てくること請け合いです。そこで日本は、ヒグマを撤収する条件として、北方領土の返還を要求するのです。これこそ、真のマッチポンプです。
もちろんこれには、ロシアは拒否するでしょうが、数百頭のヒグマの脅威は解決できません。そこで、日本はロシアから「
北方領土の共同統治
」という条件を引き出せば、一定の成果を収めたと言えるでしょう。
これにて、戦後80年、1ミリも進展しなかった
北方領土問題の解決
に向けて少しは動くと思います。
『マッチポンプとは、自らマッチで火をつけておいて、それを自らポンプで水を掛けて消すという意味で、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である』
なぜ解決しないのか?ロシアから見た北方領土問題
色丹島出身大学生の思いは…ウェークアップ
ロシアのプーチン政権は、第2次世界大戦で連合国として日本に勝利してから80年となる今年、北方領土の支配を正当化する動きも強めています。
かつて日本維新の会の丸山議員は北方領土問題について「
戦争をしないとどうしようもなくないか
」「
(戦争をしないと)取り返せない
」などと発言し、トラブルになり、丸山穂高衆院議員が除名(2019年5月14日)されました。
しかし、「
戦争をしないとどうしようもなくないか
」などという、このような考えは、丸山議員のみではないと思います。
『
彼を知り己を知れば百戦殆からず
(古代中国のことわざ)』という諺があるように、戦う場合には、自分と相手の両方の優劣長短をよく知ることが大切であるとされています。また、
孫子の兵法
にも「
戦う前に比較し十分な勝算が見込めるときに兵を起こす
」とあります。
1.敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。
2.将軍はどちらが優秀な人材であるか。
3.天の利・地の利はどちらの軍に有利か。 など。
しかし、そもそも、日本は戦争などできる状態ではないのです。
日本本土沿岸には、
原子力発電所が53基も建ち並び
、もしもミサイルを打ち込まれたら、放射能で国土は汚染され、人間は生きてはいけません。
いくら原子力発電所が停止していると言っても、実際は
制御棒
が降りているだけで、ミサイルで原子炉の制御システムが破壊されたら、停止している原子炉が制御不能になるのです。全ての原子炉が制御不能になったら、どうなるか想像できると思います。
このことに関して、原子力村の連中が、いくら
原子力発電所の安全神話
を唱えても、ミサイル攻撃まで想定していないので、答えは出せないと思います。しかも既に福島第一原発事故で安全神話は崩壊しています。
有事には、中国やロシア、北朝鮮は、まず、日本の
原子力発電所
に対して集中攻撃をするでしょう。これで日本民族は壊滅です。
戦争にはルールは無きに等しいのです。
何人か生き残ったとしても、放射能により国土は汚染され、日本はとても人間や全ての生物が生存できない環境に変貌します。
日本の原子力発電所の所在地(左)と
もしも原発がミサイル攻撃された場合の放射能汚染区域(右)
徴兵にしても、いくら防衛のためだとしましても、現在、国に命を捧げるような国民はどれだけいるでしょうか。
戦前は、
天皇陛下
のためとか、
国や家族を守るため
に、進んで徴兵に応じた国民が多かったと思いますが、現在のような
象徴天皇
の
核家族社会
では、すべての国民は「
自分ファースト
」であり、国のために死ねる国民は圧倒的に少ないでしょう。
「
石破自民幹事長もくろむ『軍法会議』
」
「
平和憲法に真っ向背反
」
それでも、石破 茂幹事長(当時)はかつて「『
これは国家の独立の為だ、出動せよ
』と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら懲役300年。そんな目に逢うなら出動しようかと。人を信じないのか、と言われるけど、やっぱり人間性の本質から目を背けちゃいけない」
石破発言の発端となったのは、東京新聞の2013年7月15日付朝刊。
このようにしてまで強制的に徴兵した兵士が、まともに戦えるのか疑問が残ります。戦争で国民が死んでも敵のせい、批判勢力は非国民、都合の悪いところは取材禁止。大切なのは正義の旗でも権力維持でもなく、国民の命と暮らしであることなど、好戦的な一部の国民やマスコミには分からないでしょう。
「今が最大の危機であるという認識は作られたものではないかと私は思っています。戦争になるぞという時代精神が浮上し、非戦という発想が後景に退いていることが心配です」(元航空自衛隊司令・林吉永さん「朝日」)
先の戦争末期の日本の軍部、支配者は本当に馬鹿でした。
いや狂っていたとしか思えません。
既に勝算なんて微塵もないのに負け戦を続けた結果、大空襲や原爆、占領地域での玉砕と沖縄戦、尊い命を数多く無駄に捨て去ったのです。
昭和天皇を騙して負ける戦争を始めた軍部
蒋介石を1ヶ月で屈服させると始めた日中戦争もすでに4年経過した頃。
アメリカは日本との貿易を中止するなど経済制裁。
ここで軍部は、昭和天皇にアメリカとの開戦の必要があると上奏。
昭和天皇は軍部に「蒋介石を1ヶ月で屈服させると言ったではないか」と問うと、軍部は「中国は広いためもう少し日数かかります」と弁解したが、昭和天皇は「太平洋はもっと広いではないか」と軍部を叱責。
そして現在、中国やロシアに宣戦布告でもしようものなら、たちまち原発に対する集中攻撃を浴び、兵糧攻めに遭いさらに鉄鉱石が輸入できず、エネルギー不足に陥り、日本はまともに戦わずして敗戦するのは確実です。
一方、金儲けのための縄張りを失う財界や富裕層、その腰巾着らにとっては、日本の敗戦はたまったものではないでしょう。
戦後、80年経っても北方領土問題が解決しないのは、自民党政権が長期政権を維持するために、北朝鮮による日本人拉致問題と同様に、北方領土問題を、自民党政権やその支持者が反共プロパガンダに利用していると言わざるを得ません。
富裕層が支配する国で、支配者である富裕層の財産と生命を守るために、貧困層は命をかけて戦う必要など全くないのです。
自分の命は自分で守りましょう。
おわり
<トルーマン回顧録>より 米国トルーマン元大統領 (終戦時の米国大統領)
日本は、天皇をボスとする封建組織のなかの奴隷国であった。そこ(敗戦)で、一般の人は、一方のボス(天皇)のもとから、他方のボス(占領軍)のもとに切りかわったわけである。彼ら多くの者(一般人)は、この切りかえは、新しい政権のもとに、生計が保たれていければ、別に大したことではないのである。
2025/9/15 石川栄一
熊の
(出典)nordicmuse.com
(出典)123RF
(出典)くまくま写真館
(出典)カドリー・ドミニオン
(出典)くまくま写真館
(出典)くまくま写真館
(出典)ロレンス編集部
(出典)ロレンス編集部
熊もここまで来るとペットです。
元維新・丸山議員は北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「取り返せない」などと発言して除名された。
戦争を始めた者は戦争には行かない
(2025年)8月14日、北海道・知床半島にある羅臼岳の登山道を下山中だった男性がヒグマに襲われ、15日に遺体が見つかった。200メートルほど後方を歩いていた友人が駆け寄って抵抗したものの、クマは男性を茂みに引きずり込んだという。(AERAデジタル)
先日、こんなニュースが飛び込んできました。
そもそも知床半島は、世界有数のヒグマの高密度生息地域として知られ、ヒグマと人との距離も近く、私が20代(約50年前)の頃、知床半島には北海道のヒグマの70%~80%が生息していると言われていました。
そこで、ヒグマから言わせて貰えば、
知床は俺たち、私たち、僕たち、我々の縄張りだから、何を取って食おうと、人間にとやかく言われる筋合いはない。
人間はヒグマが生息する土地に対する家宅侵入者であり、罰するのは当然だ。 我々(ヒグマ)の仲間に対する目に余る誹謗中傷には我慢の限界を超えている。我々は中国人やロシア人、朝鮮人ではない。れっきとしたヒグマである。
これからも我々を馬鹿にしたり粗末にする者どもに対しては、断固、毅然とした対応を取らざるを得ないと考えている。
まあ、こんなところでしょうか。
確実に言えることは、ヒグマには善悪の判断は不能だということです。
人間が近づくとヒグマが逃げるのは、凶暴な人間が怖いから逃げるのです。
その知床に、初めて行ったのは私がまだ中学生の頃の家族旅行でした。
その時は、当時、岩尾別温泉に建っていた「
国鉄・山の家
」までで、登山ではありません。
山の家
と申しましても、平屋の掘っ建て小屋で、数台の二段ベッドが設置してあり、まるで国鉄の寮のような作りでした。
はじめは、バスで岩尾別温泉に着いたとき、知床のホテルに泊まれるものだと思って歩き出し、ウキウキしていましたが、ホテルの玄関を通り越して、前方50メートルくらいの場所にあった
山の家
に向かったときは、子供ながらガクッときました。
さすがに、貧困層の国鉄職員家族とは思いませんでしたが、ホテルに宿泊している客が、
山の家
の窓から中を覗きに来るのにはビックリしました。最初はヒグマが中を窺っているのかと思いましたが、ヒグマが浴衣を着ているわけがないので安心はしました。しかし赤の他人に覗かれるのは気味が悪いものです。
食事は、当時の国鉄が山の家の管理を委託していたホテルから運んで来ました。記憶では、昼食はうどんで、夕食はホテルの食堂だったと思います。
更に驚いたのは、外部のトイレです。トイレの管理も国鉄がホテルに委託しておりましたが、積もり積もって山のようになっていたのです。
これには私の父親も驚き、ホテルに抗議をしていました。ホテル側もひたすら謝るだけで、その後のことは分かりません。
知床・岩尾別温泉『
木下小屋
』
名前の由来は、昭和初期に知床連山の登山道を開拓した
木下弥三吉
の名からとったそうです。”「写真」北海道 源泉掛け流し温泉めぐり”
最初、羅臼岳登山(主催 北工会秀岳会)を行ったのは、1970年8月でした。
この時は、羅臼岳登山口の
木下小屋
に宿泊する予定でしたが、小屋は満室で、しかも我々のメンバーも7人と多かったので、やむを得ず、木下小屋の前にテントを張って泊まることになりました。
当然、煮炊きも、屋外でやらざるを得ません。
私たちは、テントのすぐそばを流れている川の水で米を研いで、川の水で豚汁を作ってみんなで楽しく食事をしたあと、すぐ上の方を見ると、
木下小屋
の前の
露天風呂
に数名の登山者がワイワイ騒ぎながら入浴していて、その露天風呂から溢れたお湯が、我々が煮炊きに使った川の水に流れ込んでいたのです。
木下小屋の露天風呂
”「写真」北海道 源泉掛け流し 温泉めぐり”
露天風呂に誰も入っていなければ、上の写真のように綺麗なお湯なのですが、登山をしたあとの登山者の身体は汗まみれで、とても綺麗なお湯とは決して思えません。しかも、そばに洗面器が複数、置いてあるということは、身体を洗い流したお湯も、川に流れ込んでいたと言うことになります。
これについては、私たちのリーダーで先輩が、山行のメンバー一人一人に謝っていました。もう少し
木下小屋
の露天風呂から下流の方でキャンプをすれば、温泉の排水も濾過されていたと思います。
翌日、幸運にも腹痛や体調不良を起こしたメンバーは一人もいなかったのですが、天候の方が不良で、羅臼岳山頂から見えるはずの北方領土、国後、択捉島はおろか、残念ながらガスと雲以外は何も見えなかったですね。
山行のほうは、岩尾別温泉の登山口・木下小屋から羅臼岳ピストンでしたので楽なことは楽だったのですが、天候がいまいちで、8ミリを撮す対象が風景ではなく、秀岳会のメンバーだけというのも素っ気なく辛いものです。
札幌から知床まで420kmの距離を、列車とバスで、はるばるやってきたのに誠に残念でしたが、前日の
斜里岳山行
だけでも天候に恵まれたので、今回の秀岳会山行は、たいへん満足しました。
年齢的にも当時私が一番若く、またカメラマン(8ミリ動画)の私を、リーダーも気を遣ってくれたのには、たいへん嬉しかったですね。
このときも、
ヒグマ生息地のど真ん中を往復
する山行でしたので不安が付きまといましたが、そのヒグマの気配はまったく感じられませんでした。
ヒグマの方は、多勢に無勢で勝ち目がないと観念して、鳴りを潜めていたのかも知れません。
知床『羅臼岳~硫黄山』縦走 1973年7月19日~24日
『
硫黄山山頂
』私(右後ろ)
それから3年後の1973年の夏、秀岳会に学生や院生のメンバーが増えて、私も中堅の登山家の仲間入りをしていました。
また、秀岳会を立ち上げた初期のメンバーは、他の部署に異動したため、私が
会長代行
のように会の運営をしていました。
1973年 知床『羅臼岳~硫黄山』縦走のコース
(赤矢印)
●縦走1日目「木下小屋泊~羅臼平」 ●縦走2日目「羅臼平~二つ池」
●縦走3日目「二つ池~硫黄山」 ●縦走4日目「硫黄山~知床硫黄山登山口」 知床硫黄山登山口(カムイワッカの滝)に下山し、ヒッチハイクでウトロへ。(地図は下が北)
1973年の
知床『
羅臼岳~硫黄山
』縦走
のときも、ヒグマの生息地の真っ只中を縦断したのですが、この時もヒグマの気配どころか、その存在自体も全く感じられない静かな縦走でした。硫黄山の山頂では、風の音だけがヒューヒューと聞こえたくらいです。
天候ですが、岩尾別温泉登山口の
木下小屋
を出発してから硫黄山手前までは、雨には当たらなかったのですが、曇り空で天気はあまり良くなく、周りの景色はほとんど見られなかった記憶があります。
硫黄山付近まで来たときは、雲が切れ始めたので、知床連山の景色も展望できるようになったときは感激しました。翌朝、天地を真っ赤に染めるように昇ってきた朝日が目に焼き付いています。
これは半世紀以上も前の思い出です。私は歳のため、もう知床に行く機会はないと思います。従って、知床のヒグマにも会うことはないでしょう。
動物王国、北海道占冠村で生息する動物のポストカード
ヒグマの親子 "「写真」撮影者 門間敬行"
私がヒグマと出会ったのは、前もお話しした事がありましたが、
芦別岳山行
(1970年9月19日~20日)の時で、旧道の北尾根でヒグマと遭遇しました。
幸運にも、こちらが8名と多勢だったせいか、ヒグマが起ち上がったかと思ったら、急な斜面、しかも
ハイマツの上をポンポンポン
と飛ぶように跳ねながら降りていきました。すごいスピードでビックリしましたね。
あのスピードで追いかけられたら、まず助からないでしょう。そもそも人間がハイマツの上など走れません。
ヒグマとの距離は、
50m位
だったと思います。
私たちは30分くらい間を置いてから出発したところ、数名の若い女性のグループに「
ヒグマが出たので注意しましょう
」と注意したら、その女性達は、ヒグマを恐れたのか私たちの後を付いてきたのです。
私たちのグループも皆、若かったので、今回はヒグマに感謝です。
ヒグマの親子(イメージ) ”Pinterest”
ここでもう一度、ヒグマ対策を一言、述べておきます。
ヒグマは雑食ですので当然、場合によっては人間を襲います。
そのため登山では、熊除けの鈴や笛を鳴らしながら登りますが、場合によっては、
ロケット花火
などを打ち上げることもあります。
ヒグマは大きな音や、火薬の臭いを嫌うようです。
しかし、運悪くヒグマと対面したときは、睨めっこしましょう。死んだふりはいけません。物を差し出すのも、
普通はダメ
です。
そこで、ダメでない物の出し方ですが、自分の
リュックサックをヒグマの前に置いて逃げる
のも効果があるようです。
どのようにするかですが、ヒグマは
独占欲が強く
、自分が得た獲物(この場合、リュックサック)は絶対に離さないと言われています。
人間は、ヒグマがチュックサックの中をゴソゴソ、ガブガブと漁り始めたすきに、静かに、ゆっくりと退却するのです。
もし、ヒグマにあげる物がなくなったら「
次はお前の番だ
」というように、食われてしまうかも知れません。従って、ヒグマが出没している山の単独山行や少人数での山行は厳禁です。どうしても登山を実行したければ、大人数での登山にすべきです。
また、ヒグマと遭遇した場合、肩車をして助かったという例や、コウモリ傘を開いて助かったという例もあります。ヒグマには、
自分よりも大きなものは襲わない
という習性があるようです。
ヒグマは避けることはできますが、避けることができないのが独裁者です。
つまり、ヒグマが人を襲うのは、子育てや生きるためであり、人間のように、お金のためや怨恨、愉快犯のように他人を殺すことは滅多にありません。
Wars, conflict - it's all business.
One murder makes a villain;
millions a hero. Numbers sanctify.
"Monsieur Verdoux"
自国の利益のための戦争や主義主張を貫くための大量殺人、あるいは失政で国民を平気に殺してしまった独裁者達の一例を以下(下の欄)に紹介します。
これからも何事もなく、平和な余生を送りたいものです。
おわり
2025/9/4 石川栄一
栄えあるグランプリに輝いたのは毛主席
犠牲者『6,000万人』
毛沢東
(1893年12月26日-1976年9月9日)は、日中戦争に勝利し、中華人民共和国を成立させた後、農業・工業を振興するため
大躍進政策
を実施します。
その最中、中国共産党の幹部が、農業の進展を視察に行ったとき、雀が農作物を食い荒らしているような光景を目にします。そこで
雀は害鳥だから駆除しなければならない
と毛主席に進言します。
毛主席が党幹部の進言を受け入れた雀対策の結果、数年後、ようやく雀が減少します。ところが、雀が食べていた
害虫が大量に増殖
し農作物に寄生したため、中国全土が
大飢饉
に襲われてしまいます。
その結果、推計2,000万人~5,000万人が餓死したという説もあるのです。
さすがの毛主席は責任をとらざるを得なくなり、
国家主席を辞任
してしまいます。日中戦争で日本軍に勝利した偉大な英雄、毛主席でしたが、害虫には歯が立たなかったということでしょうか。しかし、毛主席はこの程度のことではへこたれません。
大躍進政策の失敗
のために国家主席の地位を、
劉少奇
(りゅう しょうき)党副主席に譲った毛主席でしたが、復権を画策し、
紅衛兵
と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させます。
いわゆる
文化大革命
「全称は
無産階級文化大革命
」です。
その結果、重要な文化財などは徹底的に破壊され、各地で中国人民同士による大量の殺戮が行われ、その犠牲者の数は、数百万人から1,000万人以上ともいわれています。
鋼鉄の男、ヨシフ・スターリン同志
犠牲者『2,000万人』
ヨシフ・スターリン
(1878年12月18日-1953年3月5日)は、レーニンの後継者争いにおいて、
ソビエト連邦共産党(以下共産党)ナンバー2
の
トロツキーを暗殺
したことに始まり、ブハーリンやルイコフなど、共産党幹部らを片っ端から粛正していきました。
その内訳は、共産党国防担当の
人民委員代理
11人全員を「粛清」、
赤軍
内部でも、5人の
元帥
の内3人を「粛清」さらに、
共産党最高軍事会議のメンバー
80人の内75人を「粛清」、
軍管区司令官
全員、
陸軍司令官
15人の内13人を「粛清」、
赤軍軍団司令官
85人の内57人を「粛清」、
師団司令官
195人の内110人を「粛清」、
准将クラスの将校
の半数を「粛清」、
全将校
の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、
大佐クラス以上の将校
に対する「粛清」。
このように共産党内の政敵を片っ端から「粛清」銃殺。
赤軍
は、スターリンの政敵だった
トロッキーが創設および指揮した部隊
ですから、幹部が粛正されるのは当然かも知れません。
さらに、ソビエト連邦で「
赤軍の至宝
」とまでいわれたトハチェフスキー元帥なども銃殺してしまったたため、第二次世界大戦の独ソ戦前半戦は、ナチスドイツ軍によって、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)は陥落、そしてモスクワまで侵攻されてしまい、スターリンはヒトラーからボッコボコにされるという始末です。
ナチスドイツに勝利した第二次世界大戦後も、スターリンは、信用できない政敵や人民を、片っ端からシベリア流刑、強制収容所送り。挙げ句の果てに、共産党秘密警察の幹部までも処刑。その後任も処刑。ここまでくると、正気とは思えません。
処刑した総数ですが、誰も信用できなくなったスターリンご本人でさえ、何人殺したか調査不能で、犠牲者は50万人から2000万人まで諸説あります。
オーストリア帝国出身のナチス総統閣下
犠牲者『1,100万人』
アドルフ・ヒトラー
(1889年4月20日-1945年4月30日)は、狂信的なドイツ民族至上主義者(
ドイツ人ファースト
)であり、その外交政策と人種主義に基づく政策は、
全世界を第二次世界大戦へと導き
、
アウシュヴィッツ
を始めとする
強制収容所を各地に設立
。
ナチスの支配地域では、ユダヤ人などに対する
組織的な大虐殺
「
ホロコースト
」を引き起こした
独裁者の中の独裁者で超有名人
。特にナチスから「
劣等民族
」として
白羽の矢
が立った国民は、その標的にされてしまいました。
現在、誰かさんが、
日本人ファースト
と唱えている我が日本人も、ナチスから見れば
劣等民族
だったとのことです。ナチスに限らず、欧米人から見れば、日本人は
アジアの黄色い猿
としか見えなかったのでしょう。
そして、ポーランドでは、ユダヤ人総人口の9割がホロコーストで殺害され、ユダヤ人(600万人)、ドイツ・シンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人、セルビア人(50万から120万人)、スラブ人(ロシア人、ウクライナ人など)、知的障害者や精神病患者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされ、その合計は、900万人とも1100 万人とも言われています。
「
独裁者の末路
」 ソ連軍(赤軍)とのベルリン市街戦において、赤軍の報復攻撃が激しくなると、ナチスドイツの偉大な英雄だったアドルフ・ヒトラー総統閣下は、ベルリン陥落目前の1945年4月30日、夫人のエヴァ・ブラウンと共に、呆気なく自ら命を絶ってしまいます。
ヒトラーの遺骸は、ソ連のKGBによって秘密裏に埋められましたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨されたとのことです。
クメール・ルージュ(共産党)書記長
犠牲者『300万人』
ポル・ポト
(1925年5月19日-1998年4月15日)は、民主カンプチア首相・カンボジア共産党中央委員会書記長、クメール・ルージュの精神的指導者。
1970年3月、
カンボジア王国
ではアメリカに支援されたロン・ノル将軍が軍事クーデターを起こし、カンボジア王国国家元首
シハヌーク国王を追放
してしまいます。(ロン・ノル軍事独裁政権樹立)
北京にて、亡命したカンボジア王国
シハヌーク国王
は挽回を図り、クメール・ルージュ(共産党)のポル・ポト書記長と接触します。
シハヌーク国王派とポルポト書記長のクメール・ルージュ(共産党)の攻勢により、1975年4月1日、ロン・ノル将軍はアメリカに亡命し、ロン・ノル軍事独裁政権は崩壊します。
1976年5月13日、ポル・ポト書記長は民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方では、アメリカの傀儡、ロンノル軍事独裁政権の
残党や支援者らに対する徹底的な報復と大虐殺
を始め、
完全な国家の改造
を行います。前政権の残党狩りや資本主義の協力者に対する
凄惨を極めた大虐殺
には、ライフルや機関銃で武装した若い少年兵も動員されました。
ポル・ポト首相が目指したのは「
原始共産主義社会
」であり、
資本主義の要素を全て否定
することでした。
1975年から1979年の間の死者数300万人にも上ったとされていますが、実際には諸説あり、80〜100万人程度とする説もあります。
その後、カンボジアではポル・ポト首相は失脚し、ベトナム共産党の影響を強く受けた
ヘン・サムリン政権
(カンボジア人民共和国)が成立します。
オスマン帝国の軍人で青年トルコ革命指導者
犠牲者『200万人』
エンヴェル・パシャ
(1881年11月22日-1922年8月4日)は、第一次世界大戦の中でオスマン帝国の軍人としてロシアと戦闘に入ります。
そしてロシアによって大打撃を被ったため、ロシア軍に協力したという理由でアルメニア人をシリアに強制移住させ、その過程で200万人にのぼるとされるアルメニア人がトルコ軍によって虐殺されたといわれています。これがアルメニア人大虐殺です。トルコは、アルメニア人大虐殺によって、国際的な非難を受けていますが、現在でもこれを認めていません。
エンヴェルは、ソ連の赤軍による掃討作戦によって、次第に東方へ追い込まれていき、1922年8月4日にフェルガナ盆地東部のアビデルヤ村で休憩中に、赤軍の奇襲を受けます。彼はなお付き従っていた30人の部下とともに機関銃を乱射する赤軍に向かって最後の突撃を敢行し、壮烈な戦死を遂げたといわれています。
ただし、彼の死の状況をめぐっては、ほかにもいくつかの異説があります。
コンゴの人口の70%減少させた。
犠牲者『200万人』
ベルギー国王レオポルド2世
(1835年4月9日-1909年12月17日)は、即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、植民地を物色するために、中近東や北アフリカ、セイロン島、清国(中国)などを旅行してまわりました。
帰国後、ベルギー王国上院において、植民地獲得を熱心に訴えましたが、ベルギー王国には、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったといいます。
中南米のグアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー王国国民も議会も、帝国主義政策(植民地政策)を支持しませんでした。
そんな中、アフリカの
コンゴ
(現 コンゴ共和国)は、天然ゴム、象牙、ダイヤモンド、金、銀など魅力的な資源が数多くあるにもかかわらず、未開拓の地であったため、レオポルト2世はここに目をつけます。
1884年、ベルギー王国が、国としてコンゴに進出することは、列強の緊張関係の中で認められず、あくまで「
レオポルト2世の私領
」として進出することになります。これが
コンゴ自由国
の成立です。
莫大な私財を投入していたレオポルト2世は、その回収を急ぎ、1893年まで250トン足らずだった天然ゴムの生産量を1901年までに6000トンにまで高めさせた
元祖ブラック企業的経営
。
過酷な圧政によって、コンゴの人口は、1885年に
コンゴ自由国
が建設された時点(3,000万人)と比べて70%減少し、900万人にまで減少したそうです。
白黒写真をカラー化
1958年 札幌市北32条西5丁目 当時の自宅周辺
当時、土地の価格は 6,000円/坪 バブル期には 900,000円/坪
写真(上)は、私が小学5年生(11歳)の秋に父が新築した家です。当時はまだ区政ではないので、住所は札幌市北32条西5丁目でした。
家の前に立っている二人は、私の従姉妹で、一歳年上と同年齢の女の子で、新築した家を見に来ました。
家の右手前に茶色の犬が二匹いますが、我が家の飼い犬で名前は「チャロ」と「タロ」と言います。当時はまだ放し飼いをしても問題になりませんでしたが、大きい方の「チャロ」は数年後に家を出て行きました。自由になりたかったのかも知れません。
一方「タロ」の方は、野犬防止のため蒔いてあった毒肉を食べて死んでしまったのです。この時は本当に可哀想でした。それは、放し飼いをしていた「タロ」が苦しそうにして助けを求めるように自宅に帰ってきたのです。
近所の子供らが、「タロ」が毒肉を食べたのかも知れないというので、私の父が毒を消すために、石けん水を「タロ」に大量に飲ませましたが、もう手遅れで、毒が体中に回った後だったようです。「タロ」は、自宅に帰ってきてから数分後に死んでしまいました。強力な毒肉を食べたのでしょう。
父は「タロ」に死に水(末期の水)を与えて、その後、自宅の花畑に「タロ」を埋葬してあげました。「チャロ」も「タロ」も悲しい別れになったので、私はそれから暫くは犬を飼うのはやめることになります。
白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
左側には少し傾いたバス停が見えます。名称は「○○商店前」
写真(上)は、1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』で、雪解けの頃(おそらく3月下旬)に撮ったもので、バス通りでしたが、まだ舗装はされていません。右側の奥にサイロが見えますが、当時は牛舎や農耕馬も多く、自宅の前にはデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑がありました。
夜になると、どこかの牛舎から、牛の鳴き声「モオオーオー」が聞こえてきます。酪農家の牛舎に直接、牛乳を買いに行ったこともあります。
牛舎では、搾った牛乳を、床に作った1メートル四方の大きなコンクリート製の升に溜めて置いて、そこから一升枡ですくって瓶に入れてくれましたが、いま思えば、あまり清潔ではなかったように思えます。
まあ、牛舎から買ってきた牛乳は、直接飲まずに沸かして飲んだので、殺菌されるから問題はなかったのかも知れません。
北32条西5丁目通りをまっすぐ北に進むと、麻生町(当時は三角屋根の家がたくさん並んでいて麻生団地とも呼ばれていました)、さらに進むと国鉄(当時)新琴似駅に到着します。
路線バスは、新琴似駅方面ではなく、麻生町から少し左斜めに折れて、屯田方面に向かいます。バスは途中、私の母校の新琴似中学校前を通りますが、バス通学ではなく、約3キロの道のりを徒歩、あるいは自転車で通学しました。
雨の日など、バスで通学した場合、市営バスのバス賃は、新琴似駅の踏切手前で降りれば
5円
、踏切を越えて中学校前(停留所名は新琴似神社前)で降りると倍の
10円
に跳ね上がりますので、5円節約のためには踏切手前で降りなければなりません。
市営バスの運転手からは「
5円くらい大したことはないじゃあないの
」と言われたこともありますが、収入源の乏しい子供にしてみれば、この
5円の差は大きい
ものです。
一方、中央バスを利用すると、その日によって、どういう訳か中学校前で降りてもバス賃は
5円
だったときもあります。これはバスの車掌さんが負けてくれたのか、それとも車掌さんが新前だったのか、もしくは、中学生なのに、小学生と間違えていたのかも知れません。
中学校では、生徒のほとんどは、併設されている隣の新琴似小学校からの移行ですので、私のように他の小学校からの入学は、
よそ者
のように扱われたように思います。中学校では自慢ではありませんが、勉強したという記憶は皆無です。
毎日のように、ステレオアンプやスピーカーボックス作りに励みました。
当然のことながら、中学生の私には収入源はありませんので、雑品屋(現在のリサイクル業者)巡りをします。当時も、各家庭で不要なものを回収する業者ですが、その雑品屋でも不要なものが出ると、倉庫に山積みされます。
そこで、私はその倉庫の中から埋蔵金を漁るように、ラジオやアンプの真空管や抵抗、コンデンサーなどを探し出します。特に、
高価な電源トランス
や
出力トランス
を見つけたときは、宝物を掘り当てたように嬉しかったですね。
雑品屋の主人も、子供の私からお金を取るようなことはなかったように記憶しています。誰から見てもお金を持っているようには見えなかったのでしょう。
このような事を繰り返し、中学校在学時には10台以上のステレオアンプ、メインアンプやスピーカーボックスをつくり、中学校の文化祭にも出展したこともあります。しかし通知箋は非常に悪く、他の生徒の不幸を私一人で背負ったようなものでしたが、理科と数学、図工だけは負けませんでした。
市電「北33条」電停、1963年(昭和38年)に麻生町まで延伸。
(出典)ただいま鉄道写真スキャン中
1972年 地下鉄南北線開通に伴い地下鉄平行部分の本路線の市電廃止。
札幌市電が北24条から麻生町まで延伸されたのは、1963年(昭和38年)になります。その後、市電は新琴似駅前まで延伸されます。一時、非電化として開業し、日本唯一の路面ディーゼルカーが走っていたこともありました。
ディーゼルカーですので、当然、静かな電車と異なり、走行しているときは、ゴーとかガーとか相当な音を出します。特に電車道路沿いの住民は騒音に悩まされたかも知れませんが、利便性が良いので反対運動は起きなかったと思います。
1年後くらいに電化されたので、ディーゼルカーは電車に切り替えられました。
笑う犬
(出典)ドッグトレーナー
犬が「笑っている」ように見える時、それは一般的にリラックスしている、楽しんでいる、安心している、あるいは飼い主との良好な関係を楽しんでいることを示しています。このような行動を見せているときは、犬も幸せで快適な気持ちでいることが多いです。(出典)犬のしつけ教室
さて、笑う犬ですが、私が北33条で電車を降りると、商店の前に犬が座っていて、その顔を見たら、何か笑っているように見えたのです。
犬が笑っているように見える理由は、次の4つがあるようです。
■ 理由1『飼い主の真似をしている』
■ 理由2『飼い主に喜んでもらいたいから』
■ 理由3『リラックスしている』
■ 理由4『「敵意はないよ」とアピールしている』
単なる通行人の私は、飼い主ではないので、理由3と理由4が該当すると思われます。ところで、笑顔に見えるのは「唸り」もあるようです。
しかし、私は犬に、ちょっかいなどを出していないので、唸られる覚えは全くありません。まさか
私を馬鹿にして笑っていた
とも思えませんので、やはり笑う犬は『
リラックス
』か「
敵意はないよ
」とアピールしていたのでしょう。
また、人間の「笑い声」は犬にとっても癒しにもなるそうです。
「笑う門には福来る」 「笑いは百薬の長」ということわざがある通り、笑いには、 心にも体にも良い「健康効果がある」と言われています。
これからも笑いがあふれる人生と社会になればよいと思うのです。
白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
西5丁目通りを走る市営バス。手前、左は鳩小屋、道路の向こう側は野原
写真(上)は、自宅二階の窓から西5丁目通りを走る市営バス撮った写真で、道路が舗装されていないので、砂埃が巻き上がっています。左下の小屋は、向かいの家の鳩小屋で、数十羽の鳩を飼っていました。
向かいの家の
本業は雑貨店
で、食品や小間物類を扱っていましたが、あまり流行っていなかったように記憶しています。おそらく、商売よりも鳩の世話の方が重要だったのかも知れません。
道路の向こう側の野原では、キリギリスをたくさん捕った思い出があります。
道路の両側は側溝になっていて、大雨の時以外は水はなく干上がった状態でした。また、夜、自転車で走っていたとき、対向車のヘッドライトに目がくらみ、側溝に落ちたこともありました。
バス通りの西側(手前)は、デントコーン畑だったところで、時々、馬を放牧しており、また自宅から自由に出入りすることができました。
私が小学校の帰り、デントコーン畑に放牧されていた馬と目が合ったとき、なんと
馬のアソコ
が
ロッドアンテナ
のように、ニョキニョキニョキと地面にくっつく位まで伸びたのです。
発情期の雄馬
(イメージ)
「出典」
馬に餌をあげたら突然発情した
(youtube)
人間の子供が馬に襲われた話など、あまり聞いたことはありませんが、緊迫した雰囲気になり、私はヒグマにでも出会ったように、おそるおそるその場を通り過ぎ、自宅にたどり着き、胸を撫で下ろしたのです。
犬猫のペットの寿命は、最長で20年位と思いますので、飼う場合は、彼らのために飼い主の寿命も考慮しなければなりません。たとえば、飼い主の年齢が、50代半ばを過ぎてから犬猫を飼う場合は、彼らより先に寿命が尽きてしまう恐れがありますので、ペットにとっては好ましいことではないと思います。
つまりペットよりも、飼い主が先に死んではならないということです。
ペットにとっては、死に水を取ってくれる飼い主が存在することが一番幸せなのです。しかし、飼い主が長生きしても、認知症になったらペットの世話もできなくなるかも知れません。
また、ペットも認知症になると「認認(にんにん)介護」になる可能性もあります。飼い主も、ペットも元気に長生きしましょう。
おわり
2025/8/24 石川栄一
札幌市北32条西5丁目 自宅があった場所(茶色の家)
(Google Street View)
札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
(Google Street View)
札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
(Google Street View)
(出典)WanQoL
(出典)犬の気持ち
(出典)UCHINOCO
(出典)笑う犬 | GANREF
(出典)PIXTA
(出典)Ameba
ドイツ ノイッフィンジング 笑う3頭の馬
(出典)アフロプリント
(出典)iStock
(出典)Pinterest
(出典)帽子被ったお馬さん(笑う)
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