カメムシは秋頃になると家の中に入ってきて異臭を発散させます。現在でも解決ぜず悩みの種になっています。
一人も殺さず、殺されずに、ロシア軍をウクライナから完全撤退させる方法を紹介します。
鉄道公安官時代の私の父
(後ろ右から4人目)1950年代
私は、敵味方、利害関係に拘らず、どのような人達とも付き合うようになったのは、子供の頃からです。1950年代、小学生の頃、市電の電車通りを挟んで、向こう側は桑園小学校の縄張り、こちらは日新小学校の縄張りで、学区によって、それぞれ行動範囲が定まっていたので、桑園小学校の生徒同士との交流は、ほとんど、なかったように記憶しています。
当時の
桑園小学校
は、私の父の母校でもあったので、木造のそうとう古い校舎で、一方の私が通った
日新小学校
は、新しくできたばかりのピッカピカの小学校です。
私の場合、親が電車通りの向こうの桑園市場(廉売市場で電車通りに面していた)に買い物に行くことも多々あり、食品店や金物店等の店との家族同士の付き合いも親密で、必然的に井戸端会議などの交流もありました。
私も桑園市場にお菓子を買いに行ったり、お焼きを買って食べたり、あるいは貸本屋から漫画の本を借りて楽しんでいました。そのような訳で、子供同士の縄張りなど、私にとってはどうでも良かったのです。
そうした中で、桑園市場の噂話や近所の噂話が、子供の私の耳にも入ります。 たとえば、近くの「交番のお巡りさんと床屋のお姉さんが
できてる
」とか、また、桑園市場のテナントの寿司屋で夫婦喧嘩(年中行事)があり、その度にお巡りさんが仲裁に入っている等、どこの家庭でも、いつも面白い話題で盛り上がっておりました。
とくに寿司屋の夫婦喧嘩は有名で、そこの女将さんは
かかあ天下
で、旦那を尻に敷いている状態でした。女将さんはいつも旦那を「
この禿げピッチ
」と罵っており、その言葉を今でも思い出します。このように当時は、
犬も食わない夫婦ゲンカ
でも、お巡りさんが乗り出す始末。
その寿司屋は「
光(ひかり)
寿司」という店名で、私は
旦那の禿げ頭
がその名称の由来と思ったくらいです。
札幌祭りの神輿渡御と桑園市場(廉売)1950年代
札幌市北4条西20丁目(自宅前)
その後も私は、政治や宗教などの利害関係に拘らずに、どのような人達とも付き合いを続けます。私の親族には、保守政党の
自民党支持者
が多かったのですが、私の父親は
社会党支持
で固まっておりました。
当時は自民党か社会党かの二大政党時代で、北海道には炭鉱が多く、炭労が強固だったため
社会党王国
とも呼ばれていた時代です。
当時の北海道知事も社会党出身の
田中敏文
でした。
その後、結党された
民社党
(民主社会党)は
裏切り政党
と呼ばれ、その支持母体である労働組合を
第二組合
と呼んでいました。
またその後、創価学会を支持母体とする
公明党
が結党されたためか、選挙の度に唱えられた「
公明選挙
」という標語が消え去ります。
私の父親は、公明党のことをいつも「
宗教の名を借りた不逞の輩
」と非難していました。しかし、これらも私から言えばどうでも良かったのです。
1968から1969年には、ベトナム戦争に対する反戦運動など世界中で学生運動が活発化した頃、1969年4月には北海道大学でも学生運動が勃発しました。
彼ら過激派の活動家の学生や院生、職員の中にも、私の知人や友人も多数、参加して活動しておりました。
しかし、私が所属していた教職員組合では、暴力的に大学の校舎を封鎖することには反対したため、必然的に彼らとは敵対することになります。それでも私は過激派の学生らの主張を理解しようとしましたが、教職員組合の幹部や論客からは徹底的に批判されることになります。
そもそも、ベトナム戦争反対や沖縄返還のために、大学校舎の
封鎖を
すること自体が、どう考えても筋違いなので、批判されるのは当然です。そうこうしている間に、1970年の安保闘争が終わる頃、北大紛争は、いつの間にか収束します。
残されたのは、封鎖された大学の校舎と瓦礫の山です。
学生運動がたけなわだった頃に「
共産主義は間違っている
」というキャッチフレーズで登場したのは「
国際勝共連合
」です。この「
国際勝共連合
」は
統一運動の創始者「文鮮明
」が1968年にソウルで設立します。
日本では、同年4月、岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らが発起人となり、勝共啓蒙団を改編し、
日本において「
国際勝共連合
」を設立
。
「
国際勝共連合
」は日本武道館で開催された
世界反共連盟(WACL)
を全面的に支援。米上院議員のストロム・サーモンドや
キューバのカストロ議長の妹のフアニータ・カストロ
をゲストに迎え、総理大臣(当時)の佐藤栄作や韓国の
朴正煕大統領
(韓国では独裁者と批判され暗殺される)からもメッセージを受けています。
私から言わせてもらえば「
国際勝共連合
」は、
日独伊防共協定(三国同盟)
のように思えましたが、いろいろな考え方があるもです。しかし守銭奴や拝金主義者、金の亡者たちが跋扈する資本主義社会が正しいとも思えません。
ある日、学生実験で使う電子部品を買うために、狸小路の
梅沢無線
に行く途中、
勝共連合
のお姉さんが、一人で「
北方領土返還
」の署名運動をしていて、私の顔を見ると、スタスタと寄ってきて「
北方領土返還署名をお願いします
」と訴えるのです。
その
署名用紙
を見ると、2~3人しか記入されていません。私は気の毒に思い、署名をしてから募金を
10円
差し出すと、そのお姉さんは「
10円じゃ少なすぎるので100円以上頂けないでしょうか
」というのです。
私も、それもそうだなと思いつつ、100円募金したとき、良いことをしたことと、悪いことをしたことを同時に感じたのでした。
昭和51年当時の
札幌運転免許試験場
(航空写真)札幌時空逍遥
札幌の運転免許試験場は、1982年の4月に現在の西区手稲山口に移転する前は、札幌市中の島にありました。中の島に試験場ができた場所は、もとは米軍の通信基地として使われていた場所だったそうです。
■
警察官の名言その1
「
おじさん、もう問題はないよ
」
さて、運転免許試験場が移転する前の1980年頃、私の妻が、原付免許取得のため、札幌市中の島の運転免許試験場での話です。
妻の隣で試験を受けていた中年の男性は、原付の筆記試験を何回受けても不合格だったためか、試験官から「
おじさん、もう問題はないよ
」と注意を受けたそうです。
しかしこれは中年男性が試験官に「
注意
」されたというよりも「
冗談
」かそれとも「
馬鹿
」にされたようなものでしょう。それにしても、筆記試験の問題は何種類くらいあるんでしょうね。
妻は一発で合格しました。
同時に受験した高校生は不合格で「
俺、もう小遣いないし
」と一言。そして妻が合格したのを見て「
すげえな
」と言ったそうです。試験官から「
もう問題はないよ
」と言われた中年男性の合否は分かりません。
妻が原付免許の試験を受けていた頃、私は、まだ5歳の長女を連れて、クルマであっちに行ったり、こっちに来たりと暇つぶしの半日。
■
警察官の名言その2
「
ここで事故られたら大変なことになる
」
それから数日後、妻は、原付バイクの
実技講習
を受けるために、中の島の運転免許試験場に行き、
自転車にも乗れない
ことを指導員に伝えて、講習を受けることになります。
他の指導員も、まさか
自転車にも乗れないのに原付免許を取得
しようとしていることが信じられず、4~5人で妻が乗ったバイクが転倒しないように支えながら指導したようで、「
ここ(運転免許試験場)で事故られたら大変なことになる、免許をあげるから、どこか広いところで練習してください
」と妻に語ったそうです。
「
ここ(運転免許試験場)で事故られたら大変なことになる
」、私も本当にそう思います。それから妻は、私の指導が良かったのかどうか分かりませんが、数日で原付バイクの運転をできるようになります。
大衆行動を阻止する警官隊
全てではないでしょうが、
警察官は下ネタが好き
というか、表現や例え話が、何でもかんでも
下ネタと結びつけ
てしまいます。
ある日、母の知人が手稲山で交通事故に遭い、不幸にも亡くなってしまいました。事故現場には数人の警察官がいたのですが、事故死した被害者の大事なところの部分が無いというのです。
それを見た警察官は「
野良犬が咥えていったんじゃないか
」と大声で叫んでいたそうです。それを聞いた母親は笑うに笑えなかったそうです。
また道警に電話で「病理解剖」について質問したところ、質問に応じた相談員は「病理解剖にしても司法解剖にしても、内臓は言うまでもなく、
ちんちん
を切り取られても文句は言えません」という返答。
この
ちんちん
という用語、電話をしている約10分間に10回以上述べられ、まるで、
ちんちんのたたき売り
のように感じたのでした。さすがの私も、電話をした目的が忘れるほど印象的な回答でありました。
警察官の対応は、まだまだ面白い話がありますので、続きは次回のお話で。
おわり
2025/5/31 石川栄一
他界した小学生時代の担任の先生と同級生
80年近く長い人生を生きて来ますと、いままで元気に暮らしてきた親族や知人、友人が一人、二人と現世での一生の仕事を終え、来世に旅立って行く姿を見送ることが多くなります。その度に私は、そう遠くないうちに自分の番が来ると思うのです。
まりちゃん
は、私の家の近所に住んでおりました。
以前、つぶやきでもお話しした
怖い老人の親戚
に当たります。
そういうこともあり、5年間、同級生でしたが、一度も会話をしたことはありません。彼女が亡くなっていることを知ったのは、今から20年くらい前、えみこ先生の後任の担任からでした。
やまちゃん
は、私が小学2年生の頃に転校してきました。
いつもニコニコして可愛い子で歌も得意でしたが、ある日の音楽の時間、担任の先生のオルガンの伴奏で、私が先に唱歌「
鯉のぼり
」を歌い、彼女(
やまちゃん
)が後で歌ったとき、私の方が同級生の拍手が大きかったので、多少の優越を感じました。
その
やまちゃん
は、結婚してから群馬県に住んでいたようです。
彼女の住所が分かったので、クラス会で撮影したDVDを送ると、感謝のメールや電話を頂き、たいへん懐かしく感じておりました。しかし、いつの日か年賀状が来なくなったので、問い合わせたら、癌で亡くなったそうです。
じゅんちゃん
は育ちがいい子で、子供の頃から
バレリーナ
を目指していたようです。道端の
雑草
のような私から見たら、近寄りがたい女の子でしたが、クラス会には東京からはるばる毎回、出席してくれました。そして、次回のクラス会も楽しみにしていたようですが、ある日、喪中の葉書が届きました。
それまで、彼女に電話する度に、次回のクラス会のことを聞かれるので、自身の余命が分かっていたように思います。そう考えると、クラス会をもう少し早くやってあげれば良かったと思うのです。
みなちゃんは
、背が高くて活発な子で、同級生にも人気がありました。
背丈は当時の私よりも10cm位は高かったように思います。
また彼女は頭も良く、学級委員もしていました。学級委員と言えば、
やまちゃん
も
じゅんちゃん
も学級委員の経験がありました。結婚後は埼玉県で暮らし、私がクラス会の連絡葉書を送る度に、次回のクラス会を楽しみにしていたようです。
しかし令和5年、
みなちゃん
の次女から手紙で訃報が届きました。
「
母は今度こそ必ずクラス会に出席するつもりでしたが、癌の進行が早く、令和五年12月に発症してから1年で亡くなりました
」という内容でした。
次女は看護師で、大腸癌の検診は定期的に受けるように勧められました。
えみこ先生
は、小学校2人目の担任で、1人目の男性担任が病気で入院したためその後任を受け持った先生でした。非常に厳しい先生でしたが、私の家族と自衛隊島松演習場(昭和30年代)に
スズラン狩り
に出かけたとき、私の妹が
えみこ先生
におんぶしてもらっていたので優しいところもあるんだと感じたのです。
えみこ先生
は小学4年生の4月に次の担任と交代することになります。
そのとき、
えみこ先生
が教室で生徒全員に言った
お別れの言葉
がいまでも思い出として残っています。
「
これからも先生の言うことを聞いて良い子になるんですよ
」
えみこ先生と再会したのは、それから約50年後の平成20年になります。
小学校に「
クラス会を計画しているので当時の担任の連絡先を知りたい
」と電話をしたところ、教頭先生が電話に出て、
えみこ先生
と
後任の先生
の住所と電話番号を教えてくれたのです。いまは、
個人情報保護法
により、当時の担任の連絡先を教えてもらうことは不可能かも知れません。
私は早速、母と
えみこ先生
の自宅に挨拶に行き、当時の集合写真などをまとめた写真集を贈り、思い出話に花を咲かせました。
えみこ先生
の体調はあまり良くなかったようですが、人柄は、当時のままのように受け取れました。
それから数年後、
えみこ先生
のご主人から喪中の葉書が届きました。
私が生まれてから、母以外で初めて出会ったのは下の写真の従姉でした。
私の父の姉の子で、彼女の家族が苗穂機関区(現在は苗穂運転所)の鉄道官舎に移る前まで、私と同じ家で暮らしていました。
そういうこともあり、彼女の身近な遊び相手は、必然的に私だけということになります。彼女は子供の頃、母親に「
将来、結婚するとしたら栄ちゃん(
私のこと
)はどうかしら
」とつぶやいていたそうです。
彼女の父親は、長年、国鉄の機関士として勤められ、また多くの後輩を育成したとして、
勲章
を受賞しております。
白黒写真をカラー化
従姉27歳(昭和45年頃)
令和4年他界
従姉7歳(昭和25年頃)
私と兄弟のように過ごした
従姉
(父の姉の子)
私の弟が生まれた頃、彼女の家族は苗穂の鉄道官舎に移りましたが、その後も、我が家と彼女の家族との親密な交流は続きます。
正月には、お年玉を貰うのが楽しみ。また、彼女が暮らす鉄道官舎では、タライのような水槽で沢山の金魚を飼っていたり、座敷では面白い形をしたラジオで遊ぶのも楽しみにしておりました。
鉄道官舎に遊びに行ったときのこんな思い出もあります。
私が5歳くらいの頃、地震があり、叔母が私を抱いて玄関まで出たとき地震が収まったので、部屋に戻ったとき、彼女はテーブルの下に隠れていてニコッと笑いました。この時、私の母は、私一人を叔母に預けて何処に行っていたのか分かりません。
それから数年後、彼女は
藤女子中学校
に入学しますが、その頃から人が変わったように、
上から目線
で私を見るようになります。4歳も年上なので、当然かも知れませんが、それだけではなく、家族同士の親交も希薄になっていきます。
彼女は、
藤女子中学校
から
藤女子高等学校
、そして
藤女子大学・英文科
に進学し卒業します。この頃になりますと、彼女はもう雲の上の存在、別世界の住民になったつもりだったのかも知れません。
彼女は
シュツワーデス
(客室乗務員)を目指していたようです。
当時の
日本航空の募集資格
には、次のような条件があります。
・年齢:20~30歳
・身長:158cm以上
・体重:45~52.5kg
・容姿端麗
・新制高校卒以上
・英会話可能
・東京在住
しかし、彼女は何が原因か話しませんが、希望が叶わなかったため、当時、北海道大学事務局で
経理課長
(後に
旭川医科大学初代事務局長
)をしていた
叔父のコネ
かどうか定かではありませんが(と言いますのは、叔母が、彼女の
履歴書
を持って、叔父の家を訪れていたからです。それは、私が叔父の家にテレビ修理に行った時のことでした。)彼女は、北海道大学工学部図書掛の
非正規職員
として勤務することになります。
それから数年後の昭和43年、私は国家公務員試験に合格し、北海道大学工学部電気工学科の
正規職員
として勤務することになったとき、
彼女と私の立場は逆転
します。
それが原因かどうか分かりませんが、翌年、彼女は、苫小牧高等専門学校に転勤し、数年後には
正規職員
として採用され、高専の教授と結婚します。
彼女は、結婚後も上から目線のプライドの高さは変わらず、私には何がそうさせていたのか、今でも分かりません。
その彼女は令和4年に他界しました。それは私の母が亡くなってから数か月後のことでした。彼女の訃報が届いたとき、私は
まさか
と思いました。
今は、彼女の若かりし頃の写真を見ながら、当時を懐かしむのです。
私の母が令和4年に亡くなりましたが、葬儀に出席してくれた姪や従妹も、それから間もなくして他界します。彼女たちは皆、私よりも10歳以上も若く、特に姪はまだ43歳の若さでした。
令和4年、私の母の棺に花を入れる
姪(令和6年他界)
とその娘
従妹(令和5年他界)
従弟の奥様(令和6年他界)
写真左側の従妹は生まれか頃からよく知っており、親戚同士も深い付き合いで、私とは家族同然の女性でした。
冠婚葬祭と正月には必ず行き来したものです。
写真左側の従弟の奥様は、北広島市の民生委員や児童委員など福祉事業に貢献、また知事から「北海道社会貢献賞」や「北海道善行賞」を受賞された立派な人物でもあり、満65歳での他界は、ご本人も悔いが残ると思います。
まさかこんなに早く亡くなるとは誰も予想もできなかったでしょう。
人
の
夢
は字の如く「
儚
」いもので、人の命もまた儚いものです。
あらゆる生物は、弱肉強食の下で生き抜いています。
生まれたばかりの1ミリにも満たない小さなクモでも、生きるために巣を張って獲物を捕らえながら、一生懸命生きています。
自宅の庭先で楽しそうに飛び回っている蝶やトンボ、ハチやバッタなどの小さな虫でも、亡くなった人達の生まれ変わりかも知れません。
捕まえようとすると直ぐに逃げてしまいます。このように、数日の寿命しかない小さな虫でも、精一杯、生きていることを楽しんでいるのです。
来世にいった親族も多くなり、私にも、もうそろそろ
来世からお誘い
があってもよい頃ですが、この世知辛い世の中に残される家族が心配です。
東宝映画『クレージーメキシコ大作戦』(1968年公開)予告編
東宝映画『
クレージーメキシコ大作戦
』の挿入歌に「
人生たかが二万五千日
/唄,植木等」(作詞:田波靖男 作曲:萩原哲晶)があります。
【歌詞】
酒は飲むべし ぶったおれるまで のめーッ
のみすぎ 死んだって 大したことない
毎日飲んでも 人生たかが 二万五千日
どうせ飲むなら ギンギラギンノギンギラギンで のもう
ギンギラギンギラ ギンギラギンノギン
ハァー ギンギラギンギラ ギンギラギンノヨイヨイ
女はくどくべし トコトンまでくどけ
ふられてもともと 大したこない
毎日くどいても 人生たかが 二万五千日
どうせくどくなら ギンギラギンノギンギラギンで くどこう
ギンギラギンギラ ギンギラギンノギン
ハァー ギンギラギンギラ ギンギラギンノヨイヨイ
『
人生たかが二万五千日
』人生気楽に生きようと思えば、この映画や歌詞ような人生にならなくても、これに限りなく近い生き方ができるものです。
人生難しく考えるから、実年齢よりも早く老け込む
のです。
将来、
生活するのに困らないようにする
ためには、若い頃から自分の得意分野を生かすように生きることです。
趣味でも特技でも何でも良いでしょう。
昔から「
好きこそものの上手なれ
」という
ことわざ
があるように、自分が得意とすることを伸ばせば「
芸は身を助ける
」ことになり、将来必ず役に立ちます。
ところで、25000日は
約68.5歳
で、この映画が上映された1968年当時の平均寿命だったのでしょうか。この唄を歌っていた植木等さんは、これより十歳以上長生きして2007年に
80歳
でお亡くなりになっております。
そもそも死ぬと火葬され、ガイコツになる人間が「
霊魂
」になったとしても、天国にも地獄・極楽にも行けるわけがありません。
以前にも述べましたが、
「霊魂」の重さを量ったら21グラム
だったという実験結果もあるそうです。その「霊魂」にしても、地球の引力圏から脱出することは出来ません。従って、人間はもちろん、全ての生物には「
輪廻転生(生まれ変わり)
」しかないのです。
暇なときにでも、近くの公園に行ってみましょう。
生まれたばかりの小鳥がさえずり、小さな虫たちが生を楽しんでいます。
それらの生物も前世、つまり、生まれる前は人間だったのかも知れません。
おわり
2025/5/19 石川栄一
1963年 バラト公園
1980年頃 同級生の居酒屋
2009年 KKRホテル札幌
2009年 KKRホテル札幌
2009年 KKRホテル札幌
2009年 KKRホテル札幌
2009年 KKRホテル札幌
2009年 KKRホテル札幌
2013年 居酒屋「陣羽織」
2024年 居酒屋「四季彩」
小学校卒業記念「寄せ書き」
ホーム
見出し
過去